近鉄京都線の「竹田」から歩き始めたので、城南宮には白河天皇陵の横から新城南宮道を西に歩き、城南宮の東側から入ることになる。
東側の鳥居をくぐり参道を進むと城南宮本殿の鳥居の前となる。
この鳥居も朱塗りの鳥居で、何故か木で出来た鳥居は赤い色が塗っているのが多く、赤い鳥居でないものは石の鳥居が多く、なかに木造白木の鳥居も見ることができる。
この鳥居をくぐると城南宮の拝殿と本殿となる。神苑はこの鳥居をくぐり左側となる。毎年、4月29日と11月3日の曲水の宴はここ神苑のなかで行なわれる。
城南宮は平安京が出来た時に都の鎮守として創建され、城(平安京)の南にあるということで、城南宮という名が付いた。
平安遷都の時に出来たのだから、白河天皇が鳥羽離宮を造った時には既に建立されていたのであり、鳥羽離宮のなかでは一番古い建造物である。
鳥羽離宮が造営されてからは天皇や上皇が行幸し、益々繁栄したのである。
京都御所の裏鬼門を守る神であり、方除け、厄除けの神として信仰されたのだが、応仁の乱などの戦禍で荒廃したが江戸時代に復興をする。
ここも幕末の鳥羽伏見の戦いでは戦場となったところである。
城南宮の駒札には、
『平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建され、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)をお祀りする。
平安時代の末、この地に白河上皇によって城南離宮(鳥羽離宮)が造営されると一層崇められ、城南祭では流鏑馬(やぶさめ)や競馬(くらべうま)が行われた。
また、離宮は方違(かたたが)えの宿所や熊野詣での精進所となり、方除の信仰が高まった。
承久3年(1221)、後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を集め、承久の乱が起きたことは名高い。
江戸時代以来、城南祭では三基の神輿が氏子地域を渡御、「餅祭り」とも称され大いに賑う。
皇室の崇敬厚く、孝明天皇は攘夷祈願の祭に行幸されて吹散(ふきちり)を賜り、慶応4年(1868)正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が轟き、鳥羽・伏見の戦いが始まり、明治維新を迎えた。
日・月・星を象った三光の御神紋は神功皇后の旗印に因んで広大な方除の御神徳を表し、建築・転宅・交通・旅行安全の神として信仰が深い。
神苑「楽水苑」は「源氏物語 花の庭」と称され、四季の風情に富む名園として名高く、春秋に「曲水の宴」が雅やかに行われる。』
出典:【城南宮の駒札】より
城南宮に湧く名水は「菊水若水」といい、先ほどの鳥居の前に手水舎があり子の水は、
『江戸時代半ばの随筆に、「城南宮の菊水(延命水、若水ともいう)の井の水を飲むと、あらゆる病が治るというので毎日参詣人が絶えない。
法皇の歯痛も治った」とsるように、病気平癒の霊験あらたかで、お百度を踏んで水を持ち帰り病人に授ける習慣があった。
また奈良のお水取りの水は、若狭の国から此の菊水若水の井を経て二月堂の若狭井に達していると伝えられる。』
出典:【菊水若水の駒札】より
と書かれていた。
その西の鳥居を出るとすぐそこが国道1号線である。時々1号線を大阪方面に走るのだが、城南宮が1号線からこんなに近かったとは思いもよらなかった。
1号線からは随分歩かないとと思っていたので些か驚いた。
人の思い込みとは大きな誤解を生むものである。
京都駅からは、市バスの19系統に乗り「城南宮」で降りると西の鳥居はすぐである。
城南宮もまた鳥羽伏見の戦勃発地となった場所でもある。
『この付近は、鳥羽伏見の戦のはじまった所である。
鳥羽伏見の戦は、明治維新を決定させた戊辰戦争の発端となった戦でもる。
慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が発せられると、前将軍徳川慶喜は、一たん大阪城に退いたが、新政府における薩摩藩の行為に憤激した旧幕兵および会津、桑名両藩兵は、翌年1月2日兵を大阪から京都へ進めた。
これにたいし朝廷では薩・長・土の諸藩兵を鳥羽および伏見に出し、鳥羽ではこの付近、伏見では御香宮の付近に陣をかまえた。
こうして1月3日の夕刻この付近にまず砲火が開かれ、つづいて伏見において両軍が衝突し、激戦となった。
夜半にいたって、旧幕府軍はついに敗退し、その後激戦が続いたが、5日淀城を収め、6日八幡を抜き、山崎にあった会津藩兵を壊滅せしめることによって、新政府軍の勝利は決定的となった。』
出典:【鳥羽伏見の戦跡】より
京都駅から城南宮には、
近鉄京都線で「竹田」(所要時間6~9分)下車、西に徒歩20分
市バス、C4乗り場から19系統で「城南宮」(所要時間28分)下車、北に徒歩3分
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