吉祥院天満宮は、延暦23年(804)、菅原道真の祖父・清公(きよきみ)が遣唐使として唐へ向かう途中に暴風雨に会い、海上で祈りを捧げると吉祥天が現われ無事唐に着いたので、帰国後に邸内に一宇を建立し、吉祥天を祀り吉祥院と名付け、菅原家の氏寺としたことに始まると云われる。
ここにも菅原道真に因む名水がある。

01本殿mid
承平4年(934:菅原道真が亡くなって31年目)に、朱雀天皇自らが道真の霊を鎮めんと、道真生誕の地に社殿を築いて道真の霊を祀ったことから、吉祥寺天満宮と呼ばれるようになったと云う。
駒札には、
『祭神として菅原道真を祀り、洛陽天満宮二十五社の一つに数えられている。社伝によれば、道真の祖父清公(きよきみ)が、邸内に一宇を建立し
吉祥院と名付けて菅原家の氏寺としたのが当社の起こりで、承平4年(934)、朱雀天皇が自ら道真の像を刻み、この地に社殿を築き道真の霊を祀ったことから、吉祥院天満宮と呼ばれるようになったと伝えられている。
吉祥院は道真誕生の地として有名で、境内には、道真が参朝の時に顔を写したといわれる「鑑の井」や道真のへその緒を埋めたと伝えられる「菅公胞衣(えな)塚」など道真ゆかりの遺跡が残っている。
また、この地は、古くから六斎念仏が盛んに行われていた所で、今も吉祥院六斎念仏踊として継承されており、国の重要無形文化財に指定されている。毎年、4月25日の春祭と8月25日の夏祭には、境内の舞殿(ぶでん)でこの伝統芸能が奉納される。』
                        出典:【吉祥院天満宮の駒札】より
また、この地は古くから六斎念仏が行なわれていた所で、今も、吉祥院六斎念仏踊として継承されている。
六斎念仏とは、踊念仏のひとつで、平安中期の僧「空也」により始められたと伝う。
踊念仏は、太鼓や鉦などを鳴らして、踊りながら念仏を唱え、六斎日(仏教で守るべき8つの戒めの日は六日あったことに因む)におこなれることから「六斎念仏」と呼ばれる。

02胞衣塚mid
吉祥院天満宮は、また道真公の誕生の地(京都には他にも道真公誕生の地とされる所があるのだが・・・)で、
境内には道長(845~903)が生まれた祭に、へその緒を埋めたとされる「胞衣塚」があり、その中心にはへそを表す丸い石が置かれている。
子供の初宮詣りに、この塚の前で小児の元気な声を聞かせ、無事な成長を祈るとともに、この塚の玉石を、お喰い初めの時に、小児の口にあてると丈夫な歯が生えると云われている。

03菅函丞相硯之水mid
道真が幼少の頃に、手習いに用いたとされる井戸であり、境内にあるのは新たに造られたもので、旧地は天満宮から十条通を東に600mほど歩いたところにあり、「菅函丞相硯之水碑(かんじょうしょうすいすずりのみずひ)」の碑が建っている。
碑文には、
『菅原道真公御幼少の頃、勉学手習いに用いられ学問向上、書道上達になったと伝わる、ゆかりふかい水で、本宮のおよそ六百米東の井戸に於て、近年まで清水が豊富に湧き出し、飲み水としても広く利用されていた。
が惜しくも涸れ果て遺跡が存するのみで復活を望む声多く、このたび篤志により当宮境内にてこの水を蘇らせることとはなり、ここにその銘を列し由来を誌す。』
                       出典:【菅函丞相硯之水の碑文】より

04鏡の井mid
また吉祥院天満宮の西には、弁財天を祀る神社があり、その境内に道長が参朝のおりに顔を写したとされる「鏡の井」がある。
横に建つ石碑は、書家・松下烏石(1699~1779)が、井戸の水の清さを讃えるために建立したものである。
碑銘には、
『石原之井/徹底而清/菅神写影/千歳留名/涌出弗渇/四時盈盈/鑑焉永嘆/厥徳維明
宝暦四年甲戌春/烏石葛辰銘并篆』とあり、
意訳すると、
「石原(吉祥院の古い地名)にある井戸は/底まで見えるほど清らかである/菅公はこの井に自身を写し/千歳(せんざい)の名声を得た/井戸の水は枯れることはなく/いつも満ちあふれ/鑑のごとしと詠嘆をする/この井戸は名水であるのは自明の理である」

京都駅から吉祥院天満宮には、
市バス、B2乗り場から208系統で「西大路九条」(所要時間18分)下車
西大路通を南に10分ほど歩き、西大路十条を西に入る