東寺の北門を出て壬生通を北に少し歩くと、新幹線の高架が見えてくる。
八条壬生の角に、「清和源氏発祥の宮」と云われる「六孫王神社」がある。
この神社の境内の北にある弁天堂には「満仲誕生水」という名水がある。

01六孫王(1)mid
六孫王神社は清和源氏の祖と仰がれる、源経基を祀っている。
経基は清和天皇の第六皇子貞純親王の子で、天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれ、神社にこの名が付けられた。
この地は元々、経基の屋敷があった場所で、経基が「死後は龍神となりてこの池に住み、子孫の繁栄を願わん。この地に葬れ」との遺言により、経基の子、源満仲が社殿を建立したのが始まりとされる。
源満仲が清和源氏の武士団を形成したことから、この神社を「清和源氏発祥の宮」と称している。
その後荒廃したのだが、元禄13年(1700)に遍照心院(大通寺)の南谷上人が再建をしたのが、現在の社殿である。
本殿に源経基、相殿に天照大神、八幡大神が合祀されている。

02六孫王(2)mid
駒札には、
『この神社は清和源氏の祖と仰がれる六孫王源経基(つねもと)を祀っている。
神社の伝えでは、この地は経基の邸宅のあった場所で、その子源満仲(みつなか)が応和年間(961~963)に初めて社殿を建立したといわれる。
その後、いつしか荒廃していたものを、元禄13年(1700)、当社の北隣の遍照心院の南谷上人(当時の能筆、作庭家)が幕府に請うて再建し、この神社を遍照心院(別名大通寺)の鎮守とした。これが現在の社殿である。
本殿に経基、相殿に天照大神、八幡大神を合祀している。
本殿背後の石の基壇は経基の遺骸を納めた場所で、神廟といわれる。
境内北の弁天堂内には満仲誕生水がある。古くから京都名水の一つとされている。
江戸時代には源氏ゆかりの神社として武家の信仰が厚かったことは、境内石燈篭に松平吉保(よしやす)など諸大名の寄進者名が見えることでしのばれる。』
                         出典:【六孫王神社の駒札】より

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本殿に参る参道の右側には、「誕生水弁財天社」があり、ここには源満仲が産湯に使ったという「誕生水」が湧いている。
誕生水弁財天社 由緒によれば、
『経基公(つねもとこう:六孫王神社御祭神)が、長男・満仲公が誕生時、健育・知育のため、井戸の上に竹生島の弁財天を勧請し「誕生水弁財天」として祀ったことに始まる。
その後、大通寺と六孫王神社で祀られるが、神仏分離令で神社がお祀りする事と成る。
毎年6月13日、午前9時から午後5時まで、御開帳祭(社殿の扉を開けて)には、伝・弘法大師昨の弁財天像を直に拝むことが出来ます。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)編纂(弁天の同情=岩波書店「怪談」の舞台
日本各地に伝わる伝説を基に再話編纂(明治37年出版)
【あらすじ】
花垣梅秀という青年が、大通寺弁天堂の前で女文字の短冊を拾う。
この詩を書いた乙女に恋い焦がれ、この乙女に会いたい思いで、願をかけ七日参籠。
七日めの明け方、老人が一人の稚児を連れてくる。
老人は稚児に、花垣梅秀を引き合わせ、「希望は叶えられた」と言う。
しばらくして、16~17歳の少女が現れるが。
弁天様に感謝のために平伏し、門を出て行くとその少女が歩いている。
自分の家に入ると、その少女も入って来る。その後黙々と二人は暮らし始める。
初めてふたりが出会ったのは秋であったが、いつしか冬の季節になっていた。
ある冬の日、梅秀は少し辺鄙な場所を歩いていると、大声で自分の名前を呼ぶ人が。
その家に招き入れられて17才の娘の話。「弁天様に祈願したところ、御告げで引合す」と言うが、自分は既に結婚しているとみお言えず、取り敢えずと言う事で、逢ってみると一緒に暮らしている本人であった。
という話で、不思議な物語として書かれている。
この物語は、江戸中期の俳人・青木鶯水という人の書いた浮世草紙のお伽百物語の中の語りを編纂したもの。』
                      出典:【誕生水弁財天社 由緒書】より

京都駅から六孫王神社には、
京都駅から徒歩13分