京都の町は碁盤目状になっていると言われるが、実際に歩いてみると、意外に通りどおしが入り組んでいる所が多く、決して碁盤目のように整理されたものとは言い難い。
むしろ札幌や名古屋の市街地の方が、よほど碁盤目状の区画となっている。
京の町が碁盤目のように整然とした区画だったのは、平安京が造られて室町幕府8代将軍、足利義政の頃までであった。
特に、応仁元年(1467)に始まり、文明9年(1477)までの11年間にわたる応仁の乱によって、京の町は灰燼に帰するのである。
応仁の乱で荒廃した京の町を復興する際に、不必要に広い通りは狭く、また道の付け替えなどのより除々に平安京の碁盤目の区画が崩れてゆくのである。
たとえば平安京の朱雀大路(現在の千本通)は85mあった道幅が狭められ、広い所でも30mほどで、狭い所は車もすれ違えない程の狭い通りとなっている。
もう一つの要因は、豊臣秀吉が天下を取り京都を改造したことである。
秀吉の改造を語る前に、平安京の碁盤目状の区画割りとなった条坊制とはどの様なものだったのであろうか。
平安京は東西4.5Km、南北5.2Kmの中央に幅85mの朱雀大路が、大内裏から朱雀大路までを通り、その左右に右京左京を配したのである。
条坊制は大路と小路からなり、東西は「一条大路」から「九条大路」までの9筋で、南北は、「東京極大路」と「西京極大路」の間に11筋の大路があった。
このように大路で区分けされた東西の列を条と呼んだ。
そしてその1条を右京と左京で、南北に4つに分け(南北の列を坊と呼んだ)4坊とする。
平安京全体では、72坊(右京で、9(条)✕4(坊)=36(坊)、左京で、36(坊)実際は、大内裏や東寺、西寺などがあり、この数より少ない)があったことになる。
その1坊を4保に、さらに1保が4町に区分けされていた。
つまり4(坊)×4(保)×4(町)=64(町)となり、1条は64町から成り立っていたのである。
ちなみに1町の大きさは120m四方で、坊を縦横3つの小路(幅12m)で分割していた。
町の大きさから平安京の大きさを見ると、東西は右京16町、左京16町で、32(町)✕0.12Km=3.84Km、南北は4町✕9で36町、36(町)✕0.12Km=4.32Kmということになる。
このように、平安京では大路で囲まれた坊を16の区割りとしたために、大路に面した所は賑わったが、中心の4坊はだんだんと衰微して荒廃し、荒れるにまかされた。
豊臣秀吉はこの中心部を生かすために、町の中央に南北の道路造り東西60mの2区画に分けたのである。
その区画に奥行30mの町家を2軒建てたのである。
さらに間口を2間(3.6m)と狭めることにより、多くの家を建てることが出来、町に活気をもたらすように改造したのである。
単純に16の区画が120もの区画になったのである。
これが後に京の町家は鰻の寝床と言われるようになり、京独特の町家を生み出したのである。
ちなみに間口が狭いのは、間口の広さによって税が高くなるからだと言われているのだが、実は間口を狭くし町家の数を増やし町に活気を取り戻そうとしたからである。
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