徳川家康によって徹底的に破壊された伏見城の跡には、物が植えられ桃の名所となるのである。

01桃山mid
伏見城の跡に桃の木が植えられたのは元禄時代の頃で、いつからともなく、このあたりが桃山と呼ばれるようになる。
それから伏見城のことを桃山城とか伏見桃山城と呼ぶようになるのであり、桃山城という城は存在しなかったのである。

02桃山城mid
伏見城が桃山城と呼ばれるようになったもう一つの理由は、近鉄が昭和39年(1964)に「伏見桃山キャッスルランド」という遊園地を、伏見城お花畑山荘の跡地に開園し、そのシンボルとして五層の大天守と三層の小天守を造ったことも、桃山城のイメージを膨らませたのである。
残念ながらこの公園は、平成15年(2003)に閉園となったが、天守閣は地元市民の要望で取り壊されることなく、伏見桃山城として残っているのだが、耐震基準に満たないため立ち入りは出来ないのである。
現在伏見城跡は明治天皇の桃山御陵のため、発掘調査も立入り長さも出来ず、伏見城の全貌は明らかにはなっていないのである。