関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、焼失した伏見城を再建するのである。
豊臣家が滅亡すると、家康は慶長7年(1602)に、木幡山に伏見城を再建するのである。
これが三度目の伏見城築城である。
ここで家康は征夷大将軍の宣下を行い、自他ともに認める天下人となるのである。
やがて徳川の世が安定し、三代将軍・家光が将軍宣下をすると伏見城の存在価値が薄れ、元和5年(1619)に伏見城は廃城となり、城の原型をとどめることもなく、取り壊されてしまうのである。
壊された建造物は各地に移設され、本丸御殿は二条城に、隅櫓は淀城や福知山城に移築され、また西本願寺や豊国神社、高台寺、御香宮などでも伏見城の建物を見ることが出来る。
コメント
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youhobito
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同じように伏見城も徹底的に破壊したのでしょうが、不思議なことにこの遺構は至る所に残っています。
youhobito
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