京都の町には多くの門があり、その殆どを寺社の門が占めている。
そんななかで「京の三大門」と呼ばれる門が「知恩院の三門」「南禅寺の三門」と「東本願寺の御影堂門」である。
「京の三大門とは」にリンク
平安京にもこれらの門に匹敵する大きな門が二つあった。「朱雀門」と「羅城門」である。
朱雀門は、平安京の大内裏の外郭南側の中央にあり、大内裏の正門であった。
平安京は四神相応に基づいて、東を青龍、西を白虎、北に玄武、南に朱雀が守り、最も重要な南にある門から「朱雀門」と名付けれれた。
JR二条駅前の千本通を北に2分ほど歩いた京都市中京区西ノ京小堀町に「此付近平安京大内裏朱雀門趾」の石碑が建っており、
説明板によれば、
『朱雀門は、平安宮(大内裏)の南面大垣中央に設けられた宮城門である。
柱間は七間(梁間二間)、中央五間に扉が付く二階門で、宮城十二問の中で最も規模が大きい。
朱雀大路に面する平安宮の正門あり、南は平安京の朱雀大路南端にあった羅城門、北は宮城内の応天門や大極殿と一直線上に並んでいる。
平安時代の終わり頃に描かれた国宝「伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)」には、炎上する応天門へ急ぎ駆けつける群衆とともに朱雀門が描かれている。
その姿は、壇上積基壇の上に建てられた壮大な瓦葺き朱塗りの門で、五間戸の前面には階段が施設されている。
朱雀門の造営当初の具体的な規模や、その後の変遷については、発掘調査例がなく不明である。
千本通で実施した朱雀門跡推定地における立会調査で、平安時代の整地層が確認されている。
なお、朱雀門の前面は広い儀礼の場となっており、毎年恒例の6月と12月の大祓とともに、斎内親王(斎宮)の伊勢群行や大嘗祭(大じょうさい)などに伴う臨時の大祓などが朱雀門前で行われた。
また寛弘4年(1007)の藤原道長による有名な金峯山(きんぶさん)参詣の折りにも、土御門第から朱雀門大路に出て祓(はらえ:身を清める神事)を行い、羅城門(跡)から平安京を出立している。
このほか、承和2年(835)9月には回転式の大弩(だいど:固定式の大弓)の試し打ちを、朱雀門前から朱雀大路にむけて発射しており、朱雀門前の広さを物語るエピソードとして京見深い。
このように、平安宮の象徴的な門である朱雀門も、承元2年(1208)9月に火災に遭い、翌年再建されたが、構造的欠陥からか建歴元年(1211)に自然倒壊し、以後は二度と再建されることはなかった。』
出典:【源氏物語ゆかりの地 平安宮朱雀門跡の説明板】より
大内裏の朱雀門から真直ぐに、道幅85mもある平安京の主要道路である朱雀大路が南に伸びた、その南の端にあった門が「羅城門(らじょうもん)」であり、この門が平安京の正門だったのである。
大きさは朱雀門と同じ大きさだったと推定されている。
しかし羅城門は門でありながら、羅城(城壁)の役目もあり横幅は50m以上もあったといい、それに比べて奥行は9mしかなく、台風や地震にはひひとたまりもない構造だった。
弘仁7年(816)に台風で倒壊し、その後再建されるも、天元3年(980)に再び倒壊し、その後再建されることはなく、荒れるが儘となる。
芥川龍之介が「羅生門(らしょうもん)」に描いたのは頃の羅城門だったのであろう。
ただ平安京が造られた当時は、間違いなく羅城門が平安京の正門だったのである。
説明板によれば、
『平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けた。
弘仁7年(816)に大風により倒壊し、その後に再建されたが、天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊した後は、再建されることがなかった。
11世紀前年に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰った記述が「小右記(しょうゆうき)」にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿となっていたと思われる。
付近の発掘調査では、羅城門に関わる遺構は見つかっていないが、東寺の木造兜跋毘沙門天立像(国宝)や三彩鬼瓦(重要文化財、京都国立博物館寄託)はこの門にあったものと伝えられている。』
出典:【源氏物語ゆかりの地 羅城門跡の説明板】より
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