天下人・豊臣秀吉にも気力の衰えが見え始め、慶長3年(1598)5月頃には床に伏せる日が多くなる。
自分の死が近いことを悟った秀吉は、伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び、家康には秀頼の後見人となるよう依頼する。
さらに五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)と五奉行(浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家)に遺言状を残し、8月18日63才の生涯を閉じるのである。
東大路通の妙法院ち智積院の間の「豊国廟参道」と刻まれた石碑を左に見て、坂道を登ってゆく。
新日吉神宮から、さらに東山の峰を目指し女坂を登っていくと、京都女子大学の東山の上限となるバス停があり、そこからさらに上へと行くと、「豊国廟」下の太閤平となる。
豊国廟は、
『豊臣秀吉の廟所である。 慶長3年(1598)8月18日、秀吉は齢63歳を以って伏見城にて薨じた。遺体は、遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が建立された。翌年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、以後、毎年盛大な祭礼(豊国祭)が取り行われた。しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され、墳墓に弔する人もなく、空しく風雨にさらされていた。 明治30年(1897)、秀吉の300年忌に際し、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられた。 なお、社殿は、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿の地に、豊国神社として再建されている。』
出典:【豊国廟の駒札】より
拝殿の後ろには、秀吉を祀る「豊国廟」への長い階段が続く。565段という階段で、下の36段の階段を登るのにも息切れしている自分では、とてもこの階段を登ることは出来ないと、ここで諦めて阿弥陀ケ峰にある「豊国廟」に手を合わせたのである。
太閤平には秀吉の側室であった、京極竜子の墓と豊臣秀頼の一子で、大阪夏の陣で大阪城から一時は逃れたのだが、豊臣滅亡後に見つけ出され、六条河原で処刑された、8才の国松の墓がある。
京極竜子は、母がたに浅井長政がいて、茶々、初、江の三姉妹は従妹にあたる。その従妹である、茶々と竜子の二人が秀吉の側室というのも面白い組み合わせである。
茶々は「西の丸」と呼ばれ、竜子は「松の丸」と呼ばれて、そのいずれも秀吉好みの美形であったようである。
この五輪塔はもと誓願寺の境内にあり、竜子が処刑された国松の遺骸を引き取ってこの寺に手厚く葬り、自身もそのそばに墓所を建立したのである。
時も進み明治の時代になると、誓願寺も縮小され、二人の墓は、この豊国廟の太閤平へと移されることとなり、今此の地ですこやかに眠っているのである。
京のかくれ名所も、本当に隠れ名所であったのかと思われるような名所もあったのだが、
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」の辞世の句を残した、豊臣秀吉の御廟を訪ね、東山から平安京の町を眺め、さて次はと思いを巡らしつつ、「京のかくれ名所」を於えることとする。
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