妙満寺の墓地には、昭和30年代にテレビ創成期を支えた、花登筺(はなと こばこ)の墓がある。

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花登筺は昭和3年(1928)大津市に生まれ、本名を花登善之助という。
若い頃は芝居役者を目指していたのだが、同志社大学を出て就職するも、結核を患い退社した後に、物書きへと転じることとなり、昭和29年(1954)に東宝と専属契約を結び、大村崑・佐々十郎・茶川一郎・芦屋雁之助など、いまでは名のしれた人々による「やりくりアパート」の脚本家として、テレビデビューをする。
そして一躍テレビ界の寵児となり「番頭はんと丁稚どん」「どてらい男」「あかんたれ」「ぬかるみの女」など次々と大阪の根性ものを書き上げる。
生涯に三人の妻をめとり、一人目は映画監督・武智鉄二の義妹で、二人目は元宝塚の由美あづさで、これがまた我が儘放題の役者で、この女のために長年一緒に仕事をした大村崑と別れている。
三人目は女優の星由里子で、この女(ひと)に看取られ昭和58年(1983)に55才でなくなり、妙満寺に祀られている。
座右の銘として「泣くは人生 笑うは修業 勝つは根性」の碑が墓石の横に建っている。
また、ここには、昭和35年(1960)に白馬童子で人気を得、その後長く映画やテレビに出演をした山城新伍の墓もあるというのだが、残念ながらそれに手を合わせることは出来なかった。