太秦広隆寺駅より東に5分ほど歩くと「大酒神社」がある。
昔は広隆寺の境内にあって、太秦の豪族秦氏の総鎮守社であり、秦始皇帝・弓月王・秦酒公の三柱を祀る。
蚕の社から京都バスが走る通りに出「一の井町」のバス停を南西に、東映太秦映画村を目指して歩いてゆく。
「太秦映画村前」のバス停がある交差点の角にあるのが、大酒神社である。
その昔、境内はもっと広く、秦氏とも深い関係のあった由緒ある社寺だったのだが、今はその面影もない小さな祠しかない神社となってしまっている。
境内の由緒書によると
『祭神 秦始皇帝、弓月王、秦酒公
相殿 兄媛命、弟媛命(呉服女、漢織女)
神階 正一位、治歴四年四月(一〇六八年)
当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社 (元名)大辟(おおさけ)神社とあり、大酒明神ともいう。
「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇8年(356 年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。
これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。
后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇14年(372年)百済より百二十七県の民衆一万八千六百七十余人統率して帰化し、金銀玉帛(ぎょくはく)等の宝物を献上す。
又、弓月王 の孫酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、呉服漢織に依って 絹綾錦の類(たぐい)を夥(おびただ)しく織出し朝廷に奉る。
絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で酒公に禹豆麻佐(うずまさ)の姓を賜う。
数多の絹綾を織出したる呉服 漢織の神霊を祀りし社を大酒神社の側にありしが明暦年中 破壊に及びしを以て、当社に合祭す。
機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に 大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。
今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。
広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社と して祀られていたが、明治初年制令に依り神社仏閣が分離 され、現在地に移し祀られる。
現在広隆寺で十月十日に行 われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった当社の祭礼である。
尚、603年広隆寺建立者秦河勝は酒公の六代目の孫。
又、大宝元年(701年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、和銅4年(713年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。
古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。
秦氏族の祖神である。』
出典:【大酒神社の由緒書】より
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