相国寺のなかに美術館がある。
その名を「承天閣美術館(じょうてんかくびじゅつかん)」という。
相国寺が創建されてから600年の記念行事の一環として、昭和59年(1984)に開館した美術館である。
相国寺の塔頭である、鹿苑寺(金閣)や慈照寺(銀閣)が所有する文化財を収蔵・展示をする。
承天閣の名は、相国寺の「相国承天禅寺」にちなみ、国宝や重要文化財を有するが、それらは相国寺やその塔頭寺院の所蔵になるのである。
所蔵品には、中国からの仏画・禅画、無学祖元といった、書や肖像画などのほか、長谷川等伯や円山応挙、狩野探幽などの作品が数多くある。
また江戸時代の絵師・伊藤若冲が寄進した「葡萄小禽図」「月夜芭蕉図」など多くの作品が展示されている。
若冲は40歳を超えた頃から本格的に絵師としての活動を始め、相国寺113世住職・大典顕常(だいてんけんじょう)と親しくしたことから、相国寺に若冲の絵が多く残る所以である。
伊藤若冲は正徳6年(1716)から寛政12年(1800)の、江戸中期に活躍した絵師である。
伊藤若冲が、錦市場の青物問屋「枡屋」の長男として生れたことは良く知られている。
錦小路通高倉の角に若冲生家跡の説明板が掛るのだが、それによれば若冲は、
『伊藤若冲(1716~1800)は、個性的な絵師が多く登場した江戸時代後半の京都にあって、ひときわ輝く強い個性で作品を生み出し続けた絵師である。
はじめは、狩野派や中国絵画を学習して絵画制作の基礎を築くが、すぐそこから離れて独自の表現を求めるようになる。
着彩画においては、めくるめくような濃彩、極小の細部にまでこだわる緻密な描写、画面全体を豊穣な色彩が埋め尽くす充填性、さらには、点描画やモザイク画など空前絶後と言ってもよい独創的な表現が、
水墨画においては、墨の滲みを効果的に用いた筋目描や大胆に濃淡をを使い分ける表現が、他の絵師には見られない独自の世界を生み出している。
絵画の主題も個性的だ。生家の青物商に由来するさまざまな野菜は、野菜涅槃図というような、それまでの日本の絵画史には見られないユニークな絵画を生み出した。
また、動植物を描くと、さまざまな種を克明に再現した博物学的な表現があると思えば、空想の動物を描いたようなユニークな作品も描く。
京都ならではの伏見人形は若冲が一貫して好んだ対象だった。
若冲は、さまざまな技法を自在に使いこなしながら、個性的で魅力的な作品を多く残している。
若冲は、真に自らの表現を追求し続けた絵師であった。』
出典:【伊藤若冲生家跡 伊藤若冲の説明板】より
また若冲と錦市場との関係に新しい事実が判ったといい、説明板によれば、
『伊藤若冲が京都錦の青物問屋の生まれという事実はひろく知られている。
若冲が描く絵画のなかには蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャなどが描かれ、菜蟲普(さいちゅうふ)という巻物には、野菜だけではなく石榴や蜜柑、桃といった果物までが描かれている。
極め付けは、野菜涅槃図で、釈迦の入滅の様子を描いた涅槃図になぞらえて、中央に大根が横たわり、その周囲には、大根の死を嘆くさまざまな野菜や果物たちがえがかれている。
このようなユニークな作品は、若冲が青物問屋を生家とすることに由来しているといわれる。
若冲は、次第に家督を譲って、錦で絵画三昧の生活を送っていたとされていた。
しかし、近年、あらたな史料が発見されたことにより、錦市場における若冲のイメージが一変した。
その史料とは、「京都錦小路青物市場記録」というもので、明和8年(1711)から安永3年(1774)までの錦市場の動向を伝える史料である。
これによると、若冲は錦市場の営業許可をめぐって、じつに細やかに、かつ、積極的に調整活動をおこなっている。
その結果、錦市場は窮状を脱することになるのだが、若冲のこのような実務的な側面は、これまでまったく知られていなかった。
若冲は、文字通り青物問屋の主人として錦市場に生きていたのである。』
出典:【伊藤若冲生家跡 伊冲と錦市場の説明板】より
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