京都五山とは、京の禅宗の寺格を付けたものであり、その由来は、鎌倉時代の北条政権のときに、五山の制度を取り入れ鎌倉の五つの寺を選定する。それが鎌倉五山といわれる禅宗の寺である。
その後、鎌倉北条氏が滅び、建武の中興で後醍醐天皇が政権を握ると、京に五山を設けることになるのだが、足利尊氏が室町幕府をつくると、京の禅宗の寺を信仰することになり、足利3代将軍・義満の時に、京都五山と鎌倉五山とに分け、南禅寺を別格とし、その両方の上に置いたのである。
京都五山とは、京都にある臨済宗の五つの禅寺をいい、室町時代の3代将軍、足利義満の時に定められた。
「南禅寺」を別格とし、第一位に「天龍寺」、第二位に「相国寺」、第三位に「建仁寺」、第四位に「東福寺」、第五位に「萬壽寺」と定められるのだが、それは京の禅寺の格付けではなく、室町幕府足利家の策略で五つを選んだに過ぎず、他に、大徳寺や妙心寺などがあるのだが、室町幕府との関係が微妙で、足利との関係から京の五山に列せられることはなかったのである。
相国寺は京都五山の第二位に列せられ、臨済宗相国寺派大本山の寺院で、山号を満年山と号し、釈迦如来を本尊とする禅寺で、永徳3年(1383)に、夢窓国師を開山として足利義満が創建したものである。
(夢窓国師を開山として、足利義満が創建したとされているのだが、開山の夢窓国師は、相国寺が建てられる30年前に示寂をし、実際は、義満の禅の師である、春屋妙葩が建立の実務を担ったのだが、妙葩は始祖となるのを辞退し、彼の師である夢窓国師を開山とするならば、次の住職を担うと言い、そのことから夢窓国師を開山とし、2世住職が春屋妙葩となったのだが、その妙葩も相国寺の堂塔伽藍の完成を待つことなく示寂をしている。)
相国寺は足利義満の強い思い入れで、すでに京都五山が確立していたなかに割り込んだ形となり、南禅寺は天皇勅願の寺であり別格に据えるという処置を経て、京都五山の一つになったことにより、相国寺の歴史が始るのである。
創建当初は堂塔伽藍がひしめき盛大を極めたが、応仁の乱で戦禍にあい荒廃をしたが、豊臣・徳川によって再興されたのだが、天明の大火(天明8年:11代将軍・徳川家斉(い
えなり)の時代)で、法堂を残し殆どが消失し、その後、文化4年(1807)に再建され今に至っている。
五山一位の南禅寺が多くの観光客が訪れるのに対し、御所の北すぐにあるのだが相国寺の境内には人の姿も疎らで、観光に背を向けて境内は何時もひっそりとしている。
しかしその静寂のなかに、禅宗の心を残し。室町時代の息吹を今に伝えているのである。


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