聚楽第は、豊臣秀吉が政権を担うために京の町に築いた、城といえるようなものである。
その跡は全く残っていないのだが、京の市内には数々の石碑が建っている。
その殆どが聚楽第の周囲を廻らせた堀跡の石碑であり、それを結び合わせた地形が聚楽第なのである。

01聚楽第址mid
聚楽第は、豊臣秀吉が内野と呼ばれる平安京大内裏跡(現在の京都市上京区)に建てたもので、九州征伐から帰った秀吉が大坂より移り、ここで政務を執った。
天正14年(1586)関白になった秀吉は、北は元誓願寺通、南は押小路通、東は堀川通、西は千本通の範囲に屋敷を造営し、周りに堀を廻らしした城ともいえるものを建てるのである。
北堀が一条通南方、東堀が大宮通、南堀が上長者町通、西堀が裏門通に掘られていたようである。
天正19年(1591)に関白職を、甥の秀次(姉・智(とも)の子)に譲ると共に、聚楽第は秀次の邸宅となる。
しかし秀吉の妾・茶々(淀君)に子が生まれると、秀次に無理難題をふっかけ、文禄4年(1595)に高野山に追放し切腹させるのである。
翌年に秀吉は聚楽第を跡形もなく破壊し、今にその跡を見つけることは難しい。
聚楽第の跡を思わせるものは何もないのだが、所々に立つ聚楽第址の石碑を巡ることで、聚楽第を偲んでみよう。