「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」と辞世の句を詠んだ豊臣秀吉。
尾張の足軽の子から、天下人にまで昇り詰めた人物である。
現在でも一代をなした人物を、秀吉になぞらえて今太閤と呼ぶ。
京の町で秀吉にまつわる所を訪ねてみようと思うのである。
秀吉は、尾張中村郷の足軽(百姓)の子として生まれたとされるが、その出自ははっきりとしない。
15才で家を飛び出し、木下藤吉郎を名乗り、今川家の松下加兵衛に仕えるが、天文23年(1554)、17才で織田信長の小者として仕え、斬新な考えと講堂により、徐々に織田家で頭角を表してゆく。
姉川の戦いで浅井家が滅ぶと、近江長浜城の城持ち大名に出世をする。
その後、数々の手柄を立て、天正5年(1577)10月に、中国・毛利攻めを命じられ、播磨・備前・美作へと兵を進めてゆく。
ところが、その最中に織田信長が京の本能寺で、明智光秀に攻められ自害をしたという知らせを受け取ると、中国攻めを中断し大坂へと兵を引き返すのである。
これが世に云う「中国大返し」である。
山崎の合戦で明智光秀を敗り、清州会議で織田家中の勢力争いに勝ち、信長の子、信雄(のぶかつ)・信孝(のぶたか)を差し置いて、信長の後継としての地位を確立するのである。
四国・九州・関東・奥羽を征して、天正18年(1590)に天下統一を果たすのである。
天正13年(1585)関白に、翌年に豊臣の姓を賜り太政大臣に、天正19年(1591)に関白を秀次に譲り、太閤と称するのである。
国内が統一されると、国の外に向かって発展をしようと、朝鮮へと兵を進めるのである。
余談だが、徳川家康は豊臣から政権を奪うと、まだ豊臣の影響が残っていたこともあり、内政に力を注いだ結果300年の長きに渡り政権を維持するのである。
一方豊臣家は、秀吉の後を継いだ秀頼は、戦らしい戦も経験したことがなく統率力に欠け、有能な武将が離れたために、家康に軽くあしらわれ豊臣家を滅ぼしてしまうのである。
そんなことを知る由もなく、秀吉は慶長3年(1598)8月18日、伏見城にて61年の生涯を閉じるのである。
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