NHKの大河ドラマでコロナの影響で中断されていた「麒麟がくる」が再開されたのだが、天正10年(1582)に織田信長が、明智光秀により、本能寺で討たれたことは誰しもよく知る処である。
光秀の出自ははっきりとはしないが、室町時代に美濃国(現、岐阜県)の守護大名・土岐氏の流れを汲むといい、美濃国には桔梗の花が咲き乱れることから、明智家の家紋は桔梗紋になったという。
その光秀が信長の家臣となり、一国一城の主となり信長に忠誠を尽くすのだが・・・
そんな光秀がなぜ謀反を起こしたかについては、怨恨説が一般的なのであるのだが、物語的には、日本人好みである虐げられた人間が、それに手向かうという筋立てなのだが、どこまで真実なのか分からないでいる。
自分的には、この時の光秀の心境は複雑で、光秀そのものは、秀吉と同じく信長によって地位を得た人物で、信長には心頭していたと思われる。
そんな人間が、怨恨から主を誅殺するという行動に走るのであろうか。
思うに、この頃の光秀は極度の不安(ノイローゼ状態と言ってもいい)に襲われ、八上城の戦いで、人質の母を死なせ、また、未だ敵地の出雲や伯耆国を切り取り次第と言われても、その先行きを考えると、多分、夜も寝られない状態だったのではないだろうかと思うのである。
それに追い討ちをかけたのが、共に競い合った秀吉の下で、備中高松城攻めに加われとの命が、その心に火を点けたのではないかと思われるのである。
愛宕権現の句会で、「時は今 天が下知る 五月哉」と詠み、これが光秀の野望の決意と見られるが、この時点ではまだ迷いがあったようである。
そして最後の決断は、天正10年6月2日未明、桂川を渡った所で「敵は本能寺にあり」と告げ、本能寺へと向かうのである。
祇園白川に架かる「唐戸鼻橋」から少し上流に、一本橋(行者橋)に似た石橋が架かる。
一本橋は石の橋桁が二つ並んで架かっていたのだが、ここの一本橋は三つの石橋が並んで架かっている。
その名もない石橋の東側には「餅寅」という和菓子屋があり、その角には「東梅宮 明智光秀墳」という石碑が建っている。
「餅寅」さんは代々この明智光秀の首塚を守ってきた家柄であり、光秀に因んだ「光秀饅頭」というお菓子が有名で、黒糖味と抹茶味の二つの種類があり、明智家の家紋である桔梗の紋が押されている。
この店の横を20m奥に入ると「明智光秀の塚」がある。
この五輪塔が光秀の首塚といわれ、ここに光秀の首を埋めたとされている。その駒札によると、
『天正10年(1582)、本能寺にいた主君織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦い(1582)で羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹薮で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われる。
家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。』
出典:【明智光秀の塚の駒札】より
明智光秀に関わる所は京都市内には多くは残っていないのだが、唯一残る白川通の脇道に入った所にある首塚が、最近その場所を2回も移転していたことが判明したという。
小栗栖で命を落とした光秀は家臣や家族と共に「粟田口」に晒し首にされ、現在の蹴上駅付近に首塚が建てられたという。
当初の首塚は、これに触れると祟りがの禍があると恐れられ、放置されていた。
江戸時代になって、光秀の子孫が判明し蹴上の首塚を、白川通三条付近に移設するのである。
その頃には、祟りは消え失せ、首から上の病が治ると、信仰の対象になっている。
明治になり、長州出身の槇村正直が京都知事になると、怪しげな信仰として首塚は撤去されるのだが、明治14年(1881)に槇村が京都を去ると、誰ともなくこの場所から20m離れた現在の場所に復活したのが、現在の首塚である。
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