阿弥陀寺にもまた、清玉上人が本能寺の変で討たれた信長と信忠の遺骨を持ち帰り、その霊を弔ったという、信長・信忠の本廟が建つ。
西ノ京蓮台野(現在の今出川大宮東)にあった阿弥陀寺の住職・清玉(せいぎょく)上人は、本能寺での異変を知り駆け付けるのだが、信長は既に自刃をし、その遺骸を託されて持ち帰り、阿弥陀寺に葬ったのだという。
その後、本能寺で討死した者、百有余名を阿弥陀寺にて弔っている。
天正10年6月2日未明、桂川を渡った所で「敵は本能寺にあり」と告げ、明智光秀は本能寺へと向かうのである。
本能寺を包囲された信長は「謀反人は誰ぞ」と問い、光秀だと知ると「是非に及ばず」と弓や刀槍を持って戦ったが、多勢に無勢、本殿に火を放ち自刃するのである。
信長の嫡男、信忠もまた、二条御所にて自害して果てるのである。この変の折に、阿弥陀寺の住職、清玉上人が本能寺に入り込み、信長やその家来達を運び出し荼毘に付し、阿弥陀寺に祀ったというのだが・・・
阿弥陀寺に信長や森蘭丸兄弟の墓があることは、あまり知られてはいない。
これは、山崎の合戦で、光秀を討った秀吉が、阿弥陀寺に信長、信忠が祀られていることを知り、盛大な弔事を行おうとしたのだが、清玉上人がこれを拒んだことから、大徳寺に総見院を建て法事をとり行ない、信長父子の菩提が弔われているとされるが、実のところは、この阿弥陀寺こそが、信長父子を弔っている寺院なのである。
話を進めばきりがないのだが、本能寺で討死にしたなかに、小姓、森蘭丸、坊丸、力丸の兄弟がいる。
特に、蘭丸は見目麗しく才長けて、信長に愛でられたようである。
写真この時代は男色は常の世界であった。
蘭丸は信長の家臣、森可成(よしなり)の3男として生まれ、小姓という秘書のような役目をし、常に信長の側に居たという。本能寺の変では、兄弟3人で奮戦するも利あらず、この阿弥陀寺に祀られているのである。
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