小川通蛸薬師には、織田信長が明智光秀の謀反により自刃をした本能寺があったところだが、今そこには「旧本能寺址」と刻まれた石碑しか立っていない。
地下鉄を烏丸御池で降りて三条通を東へ歩き、木屋町通を北へと進み、押小路通から西へ、河原町通に出ると地下鉄の市役所前の駅である。
こう書くといかにも長い距離があるようだが、実は烏丸御池と京都市役所との間は一駅なのである。この間、歩いても1Km弱の距離である。
この間を調度逆Pの字の様な形で歩くと、上のような行程となるのだが、市役所の向い側、寺町御池下るに豊臣秀吉によって移された本能寺がある。
寺町通と河原町通に面しているのだが、寺町通が正面、河原町通の方が裏門というところであろうか。
河原町からの入口は、建物と建物の間を抜けて本能寺の境内に入る形となり、うっかりすると見過ごしてしまいそうな所である。
本能寺はいうまでもなく、織田信長が明智光秀の謀反にて自刃した寺として有名なのだが、今のこの場所にある本能寺は、豊臣秀吉の京都改革で、天正15年(1587)に移されたもので、もとは、元本能寺町で本能小学校があった場所で、四条大宮から北東に5分位歩いたところである。
本能寺は、旧地でも度々火災にあい堂塔を焼失しているが、天正10年(1582)の光秀の謀反による、本能寺の変での焼失がある。
現在の地でも度々の火災にあい、元治元年(1864)の蛤御門の変で堂宇が焼失している。
それゆえ、本能寺の能の字の右側はヒの形ではなく、ヒ(火)が去るという願いで去という形になっているのだという。
本能寺は寺町と河原町に挟まれた繁華街にあるのだが、その境内は別世界のような静けさで、今も親子連れが遊んでいたり、修学旅行の生徒達が信長公廟を眺めていたりしていた。
境内には、信長公の御廟所があり、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を受け滅せぬもののあるべきか。」という、敦盛の謡が信長の人生観をよく物語っている。
信長の性格は、攻撃性と猜疑心の二つを持ち合わせ、目的を果たす為には、目の前の障害を排除する攻撃性と何事にも無条件には受入れず、自らの感性で租借するという猜疑心、この二つがあったからこそ信長は戦国の世を席巻できたのだといわれている。
また人生五十年・・・と自分の人生をクールに見つめていた人物ではなかっただろうか。49才で謀反により自刃した信長公の霊をここで静かにお祀りをしているのである。
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