天下布武を目指した織田信長は、今ではその理由は定かではないのだが、僅かな手勢を連れ京の本能寺に逗留をするのだが、天正10年(1582)6月2日の未明に、明智光秀の謀反により、本能寺を急襲し燃え盛る本能寺にて信長を自刃に追い込むのである。
本能寺から北北東に1.2Km離れた妙覚寺にあった、長男の信忠もまた獅子奮迅の働きをするのだが、多勢に無勢自刃をし、事実上、織田家はここで滅ぶのである。
信長の次男・三男は戦国時代を生き残れる器ではなかったのである。


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小川通蛸薬師で元本能寺町という地名の場所は、京都市立本能小学校のあった所である。
もっと古くは、織田信長が明智光秀の謀反により、49才を一期に自刃をした「本能寺の変」の舞台となった場所でもある。
現在の本能寺は、京都市中京区下本能寺前町の寺町御池下ルにあり、この地はその旧址である。
本能寺跡記によれば、
『応永22年(1415)御開山日隆聖人は本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元年(1429)袖屋宗句の外護により町端に再建。
次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。
その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失、天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって、旧地より四条西洞院の比の地に移転、壮大なる堂宇の再興を見た。
然るに、天正10年(1582)6月2日彼の「本能寺の変」によって、織田信長とともに炎上、天正17年(1589)この地に再建せんとするも、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙すと。
因みに本能寺は度々火災に罹りたるをもって「ヒヒ」と重なるを忌み、能の字を特に「䏻」と書くのが慣わしである。』とある。
                      出典:【石碑にある本能寺跡記】より

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本能寺は、織田信長が家臣である明智光秀の謀反により、信長の自刃とともに火が放たれ堂塔伽藍総て灰燼にきしてしまう。
時に天正10年(1582)6月2日、後に「本能寺の変」と呼ばれ日本人なら知らないものはないという程、有名な出来事である。
今回、本能寺の変で取り上げてみたいのは、よく知られている言葉である。
まずは……『時は今 天が下知る 五月哉』
の発句を光秀があげた、丹波の愛宕権現に参詣した折に催した連歌の句会で詠んだ歌である。
「時は今」とは、時は土岐氏をいい、光秀もその土岐氏につながり、「天が下知る」とは、天下を狙える時が来た「五月」であるとの意で、謀反の決意をしたと解釈されている。
そして丹波亀山を出陣し、京と丹波の境である老の坂を越え、桂川に来たときに、光秀が全軍にかけた
『敵は本能寺にあり』
と、それにより明智軍は京の本能寺へと真直ぐに向かうのである。
6月2日の早朝に本能寺を明智軍が包囲しこれに気付いた信長が光秀の謀反と知ると
『是非に及ばず』
と、その最期を悟ったという。
本能寺の変の後の光秀は三日天下といわれるように、その思いとは随分違ってしまったようである。
そしてその本能寺の跡は、明治2年(1869)に京都市立本能小学校として開校するのだが、その本能小も平成4年(1992)に少子化のために廃校となり、こんな石碑が残るのみとなる。

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駒札には、
『応永22年(1415)、日隆上人が油小路高辻の地に本応寺を創立したが、後に破壊されたので、永享5年(1433)に六角大宮に寺地を移して本能寺と改称された。
天文法華の乱で焼失したが、天文16,7年(1547、8)頃、第八世日承によって西洞院と小川との間の四条坊門(今の蛸薬師)の北の地に再興された。
当時は広大な寺域を占め、織田信長の仮宿所となったが、天正10年(1582)6月2日に信長を攻めた明智光秀の兵火にあい、一山の堂塔を失った。
後に信孝が父信長の廟を建てたために、本能寺は再びこの地に復興を見ることになったが、豊臣秀吉の区画整理により、天正年間に東京極(今の寺町)の三条坊門(今の御池)南の地に移された。』
                         出典:【本能寺址の駒札】より