二条城の南、押小路通にある北門から神泉苑に入る。
神泉苑は、平安京を造るときに、大内裏の東南に接して造られた禁苑で、俗に御池とも呼ばれている。
昔は、東西200m、南北400mの敷地があり、乾臨閣を正殿とし、法成就池という大池を掘って、庭園美を極め、天皇や貴族が遊興にふけったという。
またこの池は日照りが続いても枯れることはなく、神の泉と言われ「神泉苑」と呼ばれた。
日照りが続き庶民が水不足に苦しむと、神泉苑の池を開放し水を飲むことが許されたことから、庶民は池を「御池」と呼ぶようになり、神泉苑の前の通りを御池通と呼ばれる由来になったという。

01神泉苑(1)mid
神泉苑は、平安時代に天皇が遊宴や花見、遊猟を楽しんだ禁宛である。
神泉苑の駒札によれば、
『延暦13年(794)、桓武天皇が平安京の造営に当たり、大内裏の南の沼沢を開いて設けられた苑地で、常に清泉が湧き出すことから神泉苑と名づけられた。
その境域は、南北四町東西二町という広大なもので、苑内には大池と中嶋のほか、乾臨閣(けんりんかく)や釣殿、滝殿などもあり、歴代の天皇や貴族が舟遊、観花、賦詩、弓射、相撲などの行事や遊宴を行ったといわれている。
天長元年(824)春の日旱(ひでり)に、この池畔で東寺の僧空海が善女龍王を祀って祈雨の法を修して霊験があったと伝えられ、以後当苑では名僧が競って祈雨の修法を行うようになった。
また、貞観5年(863)には、初めて当苑で御霊会が執行されるなど、宗教霊場として利用されるようになった。
現在は、東寺真言宗に属し、毎年5月1日から四日間の神泉苑祭には、壬生狂言の流れを汲む神泉苑狂言(京都市登録無形民俗文化財)が執り行われる。』
                           出典:【神泉苑の駒札】より

02神泉苑(2)mid
観世音菩薩を安置する本堂の前にある説明文には、
『神泉苑とは・・・
神泉苑は今を去る千二百余年の昔、桓武天皇が平安京を造営の折、大内裏に近接して創建された禁宛で国指定の史蹟です。この名宛を舞台に歴代の天皇が行幸され竜頭鷁首の船をうかべ詩賦、観花、相撲、遊宴など優雅な王朝絵巻が繰り広げられました。
天長年間には弘法大師空海が当宛にて善女龍をご勧進して祈雨の修法をなされ、名僧が競って修法されました。
小野小町も「ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは」と和歌を詠じて効験があったとされ、また、静御前は舞を奉納して雨を祈ったといわれています。
貞観年間の神泉苑において始められた御霊会が後に「祇園祭」として盛行されるようになりました。
江戸時代には徳川家康の二条城築城の際、神泉苑の境内が削られたが、時の所司代板倉勝重や地元の人々の努力により現在の境内が保たれました。このように神泉苑は京都の最古の史蹟として善男善女から尊崇を受けています。
玉垣と法成橋・・・
境内南側にある玉垣(石垣)および法成橋(赤い橋)は、近年損傷が著しいため、平成13年より修復事業に着手し、皆様方の多大なるご支援ご協力を賜り、国庫、京都府、京都市の補助も受けて、この度竣工いたしました。ここに感謝し御礼申し上げます。』
                         出典:【神泉苑の説明碑文】より