01銀閣(3)mid
錦鏡池を廻り池越しに銀閣を見る。銀閣は、鹿苑寺の舎利殿(金閣)や西芳寺の瑠璃殿の様式を踏まえ、観音殿と呼ばれている。
この東山殿はかつて銀閣や東求堂など堂塔伽藍が12楼も建っていたと云うが、その大半が天文の兵乱の為に焼け落ちてしまい、今残っているのが観音殿(銀閣)と東求堂のみとなってしまった。その時に義政が愛玩していた名宝珍器も総て焼けてしまったのである。
天文の兵乱とは、天文5年(1536)に延暦寺の衆徒が京の法華一揆の撃滅に乗り出し、日蓮宗の21の寺院を焼いたという天文法華の乱で、このときの大火により京の都は応仁の乱に勝るとも劣らない被害を受け、慈照寺も殆どの伽藍が焼失してしまったが、運良く観音殿(銀閣)と東求堂が焼けずに残り今に至っている。

02東求堂mid
銀閣の東側にある東求堂、足利義政生前の持仏堂で、文明18年(1486)に建立されている。
大きさは三間半四方で単層、入母屋造柿葺の瀟洒な建物である。正面に義政の木像が安置され、右奥に義政の創意で最初の茶室と云われる同仁斎と呼ばれる書斎があり、四畳半茶室の起源とも云われている。
この建物も銀閣と同じく、国宝に指定されている。

03方丈mid
慈照寺の方丈である。建てられたのは江戸の中期。本尊として釈迦牟尼仏が安置され、江戸時代に絵画の大家といわれた池大雅の「琴棋書画図」と与謝蕪村の「棕櫚に叭叭烏図」の襖絵がある。
ここからも、波の音が聞こえてくるような銀沙灘が見えるのである。

                                -2008.02.05-