波を表すという銀沙灘にぽっかりと浮かんでいるような向月台越しに、銀閣が見える。

01向月台と銀閣mid
一説によれば、足利義政が月待山にかかる月が、銀沙灘に写る姿を、向月台に腰をおろして眺める為に造らせたものだと云われているのだが、腰をかけるにしては高過ぎるし、むしろ波間の間に富士の山を設け、銀閣の火燈窓からそれを眺めていたのではないかと思うのである。
今は、銀閣からではなく逆から眺めているので、どこか違和感を覚えるのだが、銀閣の中から見れば、庭園に溶け込んだ風情なのであろう。

02向月台mid
銀閣を造った足利義政は、室町幕府8代将軍で、8才で将軍職に付き成人した当初は政治に積極的に関与したが、側近の力があまりのも強く、意のままにならず段々と政治から離れ、詫び寂びの世界へと逃避する。
この人の正室が日本一の悪妻といわれた日野富子であり、後継者問題で応仁の乱が起り、京の町は灰燼に帰してしまう。
応仁の乱は、応仁元年(1467)に始まり、西軍・山名宗全と東軍・細川勝元が死去したことにより、4年後の文明9年(1477)に終わる。銀閣はさらにその5年後の文明14年(1482)に発願されることになる。
足利義政は政治に関与することなく、銀閣の建築や庭園造りといった趣味の世界に没頭し、善阿弥や狩野正信、音阿弥などの芸術家を召抱え、東山の地に一大文化を花開かせたのである。
この文化を、3代将軍義満の頃の華やかな北山文化と比べ、詫び寂びの枯淡美を主とした、東山文化と呼ばれている。

                                 -2008.02.05-