二条城の南側、押小路通に、江戸でいう北町と南町奉行所にあたる、東町と西町奉行所跡がある。
JRの二条駅前の千本通と押小路通の角に、西町奉行所跡の石碑が建っている。
今では全くその面影もなく、車の往来が激しいところであるが、西町も東町の奉行所も二条城からすぐの所にあったのである。
いずれも二条城の南、押小路通沿いに建っていた。
そこから少し南に下がった六角通に、今でいう刑務所にあたる獄舎があり、六角通にあったことから六角獄舎と呼ばれ、幕末の頃には多くの勤皇の志士が捕らえられ、ここに投獄されていた。
元治元年7月の禁門変でここに火の手が回ったときに、獄中の勤皇の志士30数名が斬首されていて、六角獄舎跡としての碑は建っていないが、勤皇の志士を忠霊する碑がその跡に建てられている。
またこの地は、日本近代医学あけぼのの地で、宝暦4年(1754)に杉田玄白らに先立つこと17年前に人体解剖が行なわれたところでもある。その碑も合わせてここに建立されている。
-2007.03.27-
JRの二条駅前の千本通と押小路通の角に、西町奉行所跡の石碑が建っている。
今では全くその面影もなく、車の往来が激しいところであるが、西町も東町の奉行所も二条城からすぐの所にあったのである。
いずれも二条城の南、押小路通沿いに建っていた。
そこから少し南に下がった六角通に、今でいう刑務所にあたる獄舎があり、六角通にあったことから六角獄舎と呼ばれ、幕末の頃には多くの勤皇の志士が捕らえられ、ここに投獄されていた。
元治元年7月の禁門変でここに火の手が回ったときに、獄中の勤皇の志士30数名が斬首されていて、六角獄舎跡としての碑は建っていないが、勤皇の志士を忠霊する碑がその跡に建てられている。
またこの地は、日本近代医学あけぼのの地で、宝暦4年(1754)に杉田玄白らに先立つこと17年前に人体解剖が行なわれたところでもある。その碑も合わせてここに建立されている。
-2007.03.27-



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