幕末の嘉永6年(1853)10月に、近衛家に一人の姫君が訪れる。
この姫君は、薩摩藩島津斉彬の養女・篤姫である。徳川13代将軍家定に嫁ぐためにであり、代々、徳川将軍の正室は宮家か五摂家から迎えるという慣わしがあり、近衛家の娘として嫁がせるという方策を講じたのである。
輿入れはこの日から3年後のことで、まさに黒船が浦賀の沖に姿を現した頃であった。
篤姫は天保6年(1836)に、薩摩藩島津家一門の家に産まれ、島津本家の養女となり、近衛家の娘として、安政3年(1856)11月に、徳川13代将軍家定の正室となる。
しかしその結婚は長くは続かず、安政5年(1858)7月に家定が急死、続いて島津斉彬までも亡くなってしまうのである。
僅か1年9ケ月で夫を亡くし、若くして仏門に入り、天璋院と名乗るのである。
その後、公武合体制作で、14代将軍家茂の正室として皇女・和宮(仁孝天皇の第8皇女、孝明天皇の異母妹で明治天皇の叔母)が多くに入る。
篤姫は和宮とは10才しか違わないのだが、嫁姑の関係である。
明治維新後も江戸(東京)に残り、千駄ケ谷の徳川宗家で暮らし、数え年49才でこの世を去っている。
この姫君は、薩摩藩島津斉彬の養女・篤姫である。徳川13代将軍家定に嫁ぐためにであり、代々、徳川将軍の正室は宮家か五摂家から迎えるという慣わしがあり、近衛家の娘として嫁がせるという方策を講じたのである。
輿入れはこの日から3年後のことで、まさに黒船が浦賀の沖に姿を現した頃であった。
篤姫は天保6年(1836)に、薩摩藩島津家一門の家に産まれ、島津本家の養女となり、近衛家の娘として、安政3年(1856)11月に、徳川13代将軍家定の正室となる。
しかしその結婚は長くは続かず、安政5年(1858)7月に家定が急死、続いて島津斉彬までも亡くなってしまうのである。
僅か1年9ケ月で夫を亡くし、若くして仏門に入り、天璋院と名乗るのである。
その後、公武合体制作で、14代将軍家茂の正室として皇女・和宮(仁孝天皇の第8皇女、孝明天皇の異母妹で明治天皇の叔母)が多くに入る。
篤姫は和宮とは10才しか違わないのだが、嫁姑の関係である。
明治維新後も江戸(東京)に残り、千駄ケ谷の徳川宗家で暮らし、数え年49才でこの世を去っている。
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