近衛家の屋敷は京都御苑の最も北にあり、今出川御門を入り右側の辺りにあったようである。

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五摂家筆頭の近衛家のの屋敷があった跡である。勿論今はその跡形を偲ぶ縁は何もないのだが、その跡地に建つ木簡の碑と近衛池の名を残す小さな池(近衛池)が残っているのみである。
近衛家は平安時代末期に、関白藤原忠道の四男基実(もとざね)を粗とし、貴族のなかで最高の位を保ち続けた家柄であり、多くの人が摂政や関白の位についている。
家名は、邸宅が近衛大路(現在の出水通)に面していたことに由来する。洛中洛外図に描かれた近衛殿は、現在の同志社新町キャンパスのあたりにあったという。その住所が京都市上京区新町通今出川上ル近衛殿表町とあり、近衛殿の名が地名に残っている。
豊臣秀吉の京都改造で、京都御苑の現在の所に移っている。
五摂家とは、藤原忠通の子基実が近衛家を、兼実が九条家を起し、さらに年代が下がり、近衛家より鷹司家が別れ、九条家より二条家と一条家が分家し五つの家が出来、この五つの家から公家の最高位である摂政や関白になる事ができるという家柄なのである。
余談だが、この五摂家以外から関白になった人は、かの豊臣秀吉とその養子である、豊臣秀次の二人だけである。それ以外は総てこの五摂家からその職に就いているのである。

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駒札には、
『このあたりが近衛家の屋敷のあったところです。近衛家は、五摂家の一つで、江戸時代末までに多くの人が摂政や関白になっています。
かつては、この庭園の池の西側に大きな屋敷があり、御所炎上の際には仮の皇居にもなりました。
池のほとりは、昔から糸桜の名所で、孝明天皇も次の歌を詠まれています。
「昔より 名にはきけども 今日みれば むべめかれせぬ 糸さくらかな」
                             出典:【近衛邸跡の駒札】より
「昔より 名には聞けども 今日見れば むべ目かれせぬ 糸桜かな」(目かせれぬ:目が離せないの意)江戸時代末期に孝明天皇が近衛忠煕(ただひろ)邸に行幸された折に詠まれたもので、安政元年(1854)に、御所が炎上したことで仮御所を変える中で、近衛邸の「枝垂桜(糸桜)」を見たときに、その美しさを詠んだものだという。

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近衛家は時代が変わっても公家筆頭の地位を保ち、多くの摂政や関白を輩出している。
江戸時代末期には、薩摩島津家の篤姫を近衛家の養女として、徳井川13代将軍・家定に嫁がせている。
明治になっても爵位の筆頭である公爵に序せられている。(五爵とは、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵をいう)
昭和でも近衛文麿が、昭和12年(1937)の盧溝橋事件に端を発した日中戦争から、昭和16年(1941)の太平洋戦争が海戦する間際の10月16日まで、34代・38代・39代の総理大臣を務め、終戦後A級戦犯に問われると、荻外荘で青酸カリを飲み、服毒自殺をしている。
現在の当主・近衛忠輝は、旧肥後熊本藩主・細川家の細川護貞(もりさだ)と温子(近衛文麿の次女)の次男として生まれ、近衛家の養子となっている。
因みに79代総理大臣細川護熙(もりひろ)は、近衛忠輝の実兄である。