京都御苑の北西にある乾御門を入ってすぐ右側の、宮内庁京都事務所の辺りに、五摂家の一つであった一條家の屋敷があった。

01一条邸min
一條家は鎌倉時代に、九條道家の三男・一條実経(いちじょう さねつね)を粗とした公家である。
道家の一條殿に実経が住んだことから、一條の家名が付いた。
五摂家(鎌倉時代に、藤原氏の嫡流で公家の家格の頂点に立った五つの公家を言う)の一つで、その序列は「近衛家」を筆頭に「九條家」と「一條家」は同格で、その下に「二條家」と「鷹司家」と続く。

一條家は土佐の高知とも関わりが深く、戦国時代に一條教房(いちじょう のりふさ)が応仁の乱を避け、土佐の幡多郡に移り住み、武士として土佐に土着し、幡多地方を土佐の小京都と呼ばれる独自の文化圏を定着させる。
戦国時代の土佐の国では、長曾我部氏や本山氏・安芸氏などと共に、土佐七雄の別格として君臨をしたのだが、長曾我部に対抗できずに断絶をする。

幕末には、一條忠香(いちじょう ただか)の三女・美子(はるこ)が、明治天皇の皇后となっている。

02銀杏min
一條家は祇園祭の歴史とも関わりが深く、昔の祇園祭では「長刀鉾」以外にもお稚児さんが乗っていたのだが、天明8年(1788)の大火で焼失した「函谷鉾」を、天保10年(1839)に再建した折に、
一條忠香の嫡男・実良(さねよし:美子の実兄)が、稚児として選ばれたのだが、病で鉾に乗ることが出来なくなり、仏師・七条左京によって等身大の稚児人形が作られ、忠香が「嘉多丸」と名付け、一條家がこれを寄進し、函谷鉾に据えられた。
これから、鉾には生身の稚児の代わりに人形が乗せられるようになり、他の鉾にも稚児人形が乗せられるようになったきっかけを作ったのである。