京都御苑の南西の角に、一本の大きな椋の木がある。
樹齢300年とも云われ、この辺りに清水谷家の屋敷があったことから「清水谷家の椋」と呼ばれている。


01椋(1)min
清水谷家は西園寺家の一門で、鎌倉時代に西園寺公経の二男、実有を祖とする公家である。雅楽を家業として天皇に仕えた。
その清水谷家の邸内に植えられたものか、その屋敷が建てられる前から有ったのか分からないが、300年も前からこの地にあって幾多の歴史の変遷を見つめていたのであろう。

02椋(2)min
左が御所の西側の塀に沿って、右が南側の塀に沿っての景色である。
またこの椋の木の下で、元治元年(1864)に起こった禁門の変(蛤御門の変)の時、来島又兵衛が討死したと伝えられている。
来島又兵衛は長州藩士で、高杉晋作の奇兵隊に比して遊撃隊を組織し、禁門の変に際して出兵し蛤御門を入ったこの椋の木の辺りで、薩摩の銃撃隊に胸を撃ち抜かれ自刃した。
そんな血生臭いことも、この椋の木は見ていたのである。

03椋(3)min
駒札には、
『この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷があったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。
樹齢は約300年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木です。
元治(げんじ)元年(1864)の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊王攘夷激派の一つ)の総督だった来島(きじま)又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられています。』
                            出典 【清水谷家の椋の駒札】より