京都御苑西側のほぼ真ん中位にあるのが蛤御門である。

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蛤御門は、本来は新在家御門と言われていた高麗門型の筋鉄門である。江戸時代の大火で、それまで開かなかったものが開けられた為に、焼けて口を開く蛤のような門と言われるようになり、いつしか蛤御門と呼ばれるようになった。
新在家御門を開かせた江戸の大火は二説があり、
ひとつは、宝永5年(1708)に御所を含め、417町、1万3,000軒が焼失した「宝永の大火」
そしてもう一つは、その80年後の天明8年(1788)に、二条城や御所など1,400町、3万7,000軒が焼失した「天明の大火」である。
どちらの説も有力で、いまだにどちらの大火によってこの御門が開いたのか分からないのである。蛤御門の駒札にも、「江戸時代の大火で……」としか書かれてなく、どちらとも特定はしていないのである。

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蛤御門の梁や門扉には、鉄砲の弾痕の跡が残っている。これは元治元年(1864)にこの門の辺りで、長州藩と御所を護衛する幕府軍との間で「禁門の変」と云われる激戦が行われた為である。
禁門の変とは禁裏の御門で起きた戦ということで、御苑の門を挟んで長州藩と幕府連合軍が戦った戦で、特にこの蛤御門での戦が激しかったことから「蛤御門の変」とも呼ばれている。
文久3年(1863)に京を追われた長州が朝廷での勢力を取り戻そうと、来島又兵衛や久坂玄端などが上洛を主張し、池田屋で新選組に藩士を斬殺された報が届くと、一機に主戦派に火が付き、京に向うことになる。
元治元年(1864)7月19日に長州兵は御所西側の各門で戦端を開くのである。一時、筑前藩の守る中立売門を突破するが、薩摩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転し、来島又兵衛、久坂玄端、寺島忠三郎らは討死をする。
戦は一方的に長州側の負け戦となり国許へ敗走の祭、長州屋敷に火を放ち、これが京の町を焼き尽くしてしまうのである。世に「どんどん焼け」と云われていて、天皇が東京に移った一因だとも云われている。
特に戦の激しかった蛤御門には、今に弾痕の跡をはっきりと見ることが出来るのである。

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門のそばの駒札には、
『江戸時代末期の元治元年(1864)、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当たっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行われました。
この戦いが「禁門の変(蛤御門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っています。
この門は新在家門といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と威張れるようになったといわれています。』
                               出典 【蛤御門の駒札】より