西園寺邸跡の駒札が立つ辺りと、皇宮警察本部京都護衛所とに挟まれた梅林の北が「枇杷殿(びわどの)」があった所である。
その一角に立つ駒札には、
『このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経(もとつね)から三男仲平(なかひら)に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。
長保4年(1002)以降、藤原道長と二女妍子(けんし)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、寛弘6年(1009)には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます。
長和3年(1014)、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます。』
出典 【枇杷殿跡の駒札】より
枇杷殿は、藤原道長の次女妍子(けんし)が晩年を過ごした所だが、妍子は道長の娘の中で秀でて美しかったという。
姉の一条天皇の中宮彰子は、敦成親王(後一条天皇)と敦良親王(後朱雀天皇)を産んでおり、道長はさらに権力を盤石なものにしようと、居貞親王(三条天皇)に妍子を嫁がせ、男子を産ませようとするが、生まれたのは女の子であり、道長の思惑は外れてしまう。
その後、三条天皇が崩御すると、妍子は娘の禎子内親王と共に、この枇杷殿に住み禎子内親王がのちの後朱雀天皇に嫁ぐのをみて、亡くなっている。
ここにそのような謂われの琵琶殿があったことなど、夢のまた夢で今はその面影をしのぶ縁(よすが)もない。
その一角に立つ駒札には、
『このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経(もとつね)から三男仲平(なかひら)に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。
長保4年(1002)以降、藤原道長と二女妍子(けんし)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、寛弘6年(1009)には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます。
長和3年(1014)、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます。』
出典 【枇杷殿跡の駒札】より
枇杷殿は、藤原道長の次女妍子(けんし)が晩年を過ごした所だが、妍子は道長の娘の中で秀でて美しかったという。
姉の一条天皇の中宮彰子は、敦成親王(後一条天皇)と敦良親王(後朱雀天皇)を産んでおり、道長はさらに権力を盤石なものにしようと、居貞親王(三条天皇)に妍子を嫁がせ、男子を産ませようとするが、生まれたのは女の子であり、道長の思惑は外れてしまう。
その後、三条天皇が崩御すると、妍子は娘の禎子内親王と共に、この枇杷殿に住み禎子内親王がのちの後朱雀天皇に嫁ぐのをみて、亡くなっている。
ここにそのような謂われの琵琶殿があったことなど、夢のまた夢で今はその面影をしのぶ縁(よすが)もない。
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