御所の建礼門から南に真っ直ぐに伸びる正路が、九條池の高倉橋にあたる少し手前に、
「黒木の梅」がある。


01黒木の梅(1)min
そこにある説明板には、
『「黒木の梅」は、九條家跡にあったものを大正天皇即位大礼の時、現在の場所に
移植されましたが枯れてしまい、現在の木は接木により植継されたものです。
原株は英照皇太后御幼少の時、ご生家で愛でられていたと言われています。
花は濃紅色、大輪の八重咲きで重なり厚く多くの花をつけます。』
                    出典 【黒木の梅の説明板】より
とあり、孝明天皇の后であった、英照皇太后が愛でた梅だったという。

02黒木の梅(2)min
英照皇太后は、幕末動乱期の第121代孝明天皇の后で、九條家に生まれ、
名を夙子(あさこ)と言った。
弘化2年(1845)、12才の時に、統仁(おさひと)親王の妃となり、
翌年に16才で統仁親王が即位し、第121代天皇となるのだが、
夙子(あさこ)は皇后とはならず、准三后(じゅんさんごう)に叙される。
孝明天皇は立后を望んだが、徳川幕府かr横やりが入ったのである。
反対の理由はわからないのだが、特に反対する理由も見当たらない。
皇女二人を産むのだが、いずれも幼少にして亡くなっている。
第二皇女の、富貴宮は公武合体を進めるために、徳川14代将軍・家茂に
嫁がせようとしたのだが、生まれたばかりの為に、孝明天皇の異母妹・和宮に
白羽の矢が立ったのである。
話は少しそれたが、二人の皇女が亡くなると、権大納言・中山忠能(ただやす)
の娘で側室の慶子(よしこ)が産んだ子を、九條夙子(あさこ:英照皇太后)の
実子とし、第二皇子としたのである。
33才で孝明天皇が崩御し、明治天皇即位後の、慶応4年(1868)に皇太后の
称号を与えられる。
東京遷都の後は、赤坂離宮に住み、明治30年(1897)、64才で崩御する。
因みに、大宮御所は英照皇太后の為に、慶応3年(1867)に造営されている。