仙洞御所の表門と烏丸通に面した出水口とを結ぶ砂利道の北側、表門から
2分ほどの所に、寛文3年(1663)に後西天皇退位後の御所
「凝華洞(ぎょうかどうあと」があった。

01凝華洞(1)min
『江戸時代第111代、後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれ
ています。
元治元年(1864)禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主
松平容保(かたもり)は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮本陣にしました。
丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち、南には池がありました。
その後、明治の大内保存事業等で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、
戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています。』
                     出典 【凝華洞跡の駒札】より
と凝華洞跡の駒札には書かれてあるのだが、天皇が退位をして住む処を仙洞御所
といい、御苑の中には後水尾天皇が住いした仙洞御所が建物はないのだが、庭園
が保存され仙洞御所として残っている。
ところが後西天皇の退位後の御所は仙洞御所ではなく、凝華洞という名が付いた
建物だったという。
仙洞御所が何故に凝華洞と名付けられ、17才で即位し25才で10才の霊元天皇に
皇位を譲り、その後この凝華洞で過ごしたという。
後水尾天皇が仙洞御所で過ごしたのに対して、何故この凝華洞と名付けられた処で
過ごしたのか、甚だ疑問の湧くところである。

02凝華洞(2)min
今では御苑のこの辺りは近くの幼稚園児の遊び場となっているのだが、
元治元年(1864)の禁門の変で、会津藩はここから、鷹司邸に籠る長州の兵に
大砲を撃ちかけたという。
当時は一体は公家の屋敷が立ち並び、大砲の弾はy式の屋根越しに飛んだと思われ、
公家たちは生きた心地がしなかったであろう。