京都は明治維新で、天皇や公家が東京に移り、京都御苑は荒れるにまかされた。

京都に昔の面影を取り戻そうと、京都の官民が一体となり、復興への道を探るのである。
明治4年(1871)に、初代京都府知事・長谷信篤(ながたにのぶあつ)が呼びかけ、京都の有力町衆が協力をし、日本最初の博覧会が西本願寺で開催された。
翌年には、西本願寺・建仁寺・知恩院に拡大され、明治6年に京都御所の仙洞御所を会場として、3回~9回まで博覧会が実施される。
明治14年(1881)の14回目の博覧会から、京都御苑のこの場所にて開催され、大正2年(1913)まで、常設会場として開催された。
その後、大正3年からは岡崎公園の京都市勧業館(現、みやこめっせ)で、昭和3年(1928)まで開催された。
京都御苑の博覧会場跡は、いま富小路広場として、市民に開放されている。

富小路広場の博覧会場跡にある駒札には、
『東京遷都後、京都が寂れるのを心配した京都府関係者らは、明治4年(1871)、日本最初の博覧会を西本願寺で開き、伝統産業品を網羅して展示、京都の殖産興業を図りました。
第二回~九回までは仙洞御所内で開催されましたが、明治14年(1881)の第十四回から、この地に建設された常設会場で行われました。
その東南部には、京都画学校(今の市立芸術大学)がありました。
大正3年(1914)以降は、岡崎の京都市勧業館が会場となりました。』
出典 博覧会場跡の駒札

京都に昔の面影を取り戻そうと、京都の官民が一体となり、復興への道を探るのである。
明治4年(1871)に、初代京都府知事・長谷信篤(ながたにのぶあつ)が呼びかけ、京都の有力町衆が協力をし、日本最初の博覧会が西本願寺で開催された。
翌年には、西本願寺・建仁寺・知恩院に拡大され、明治6年に京都御所の仙洞御所を会場として、3回~9回まで博覧会が実施される。
明治14年(1881)の14回目の博覧会から、京都御苑のこの場所にて開催され、大正2年(1913)まで、常設会場として開催された。
その後、大正3年からは岡崎公園の京都市勧業館(現、みやこめっせ)で、昭和3年(1928)まで開催された。
京都御苑の博覧会場跡は、いま富小路広場として、市民に開放されている。

富小路広場の博覧会場跡にある駒札には、
『東京遷都後、京都が寂れるのを心配した京都府関係者らは、明治4年(1871)、日本最初の博覧会を西本願寺で開き、伝統産業品を網羅して展示、京都の殖産興業を図りました。
第二回~九回までは仙洞御所内で開催されましたが、明治14年(1881)の第十四回から、この地に建設された常設会場で行われました。
その東南部には、京都画学校(今の市立芸術大学)がありました。
大正3年(1914)以降は、岡崎の京都市勧業館が会場となりました。』
出典 博覧会場跡の駒札
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