京都御苑の南側にある三つの出入口のなかの「間ノ町口」から入り、鷹司邸跡から振り返ると、堺町御門が見える。

堺町御門の駒札には、
『文久3年(1863)8月18日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿七人と尊王攘夷派の中心である長州藩を京都から津法する政変を起こしました。
堺町御門警備担当の御門に集結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。
政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿七人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立しました。』
出典 堺町御門の駒札

この堺町御門の警備は、幕末の頃、長州藩の担当であった。
文久3年(1863)8月に起きた政変を知った長州藩がこの堺町御門に集結するも、既に会津・薩摩の兵により固められており、門内に入ることが出来ず、
公武合体派が尊王攘夷を唱える公家七卿と長州藩を京から追放することになる。
この政変は尊王攘夷を唱える公卿7人が京落ちをすることで、世に七卿落ちと呼ばれている。
七卿落ちとは、公武合体を推す公家と尊王攘夷を謀る公家との確執で、時の孝明天皇が公武合体を後押しした為、会津・薩摩を中心とした公武合体派により、
長州が進める尊王攘夷の7人の公家、三条実美(さねとみ)、三条西季知(すえとも)、四条隆謌(たかうた)、東久世通禧(みちとみ)、壬生基修(もとなが)、錦小路頼徳(よりのり)、澤宣喜(のぶよし)の7人が京から長州へと落ちて行くのである。
その後、王政復古の号令が掛ると赦免され、それぞれ明治政府の要職につき生涯を終えている。
この7卿落ちの翌年に「禁門の変(蛤御門の変)」が起こるのである。

御所の建礼門から南への道は、正路として真っ直ぐに丸太町通に出る構想だったが、九条池に架かる高倉橋が馬車も通れないような幅だったことから正路とならず、高倉橋の北詰で左(東)に曲り、堺町御門から丸太町通へ出ることになる。
建礼門の前から出発する、葵祭や時代祭は、建礼門から正路を進み、堺町御門から丸太町通へと出てゆくのである。
京都御苑の九つの門は総て「高麗門」という形式だが、堺町御門だけは、後に左右に門番所が増築されている。

堺町御門の駒札には、
『文久3年(1863)8月18日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿七人と尊王攘夷派の中心である長州藩を京都から津法する政変を起こしました。
堺町御門警備担当の御門に集結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。
政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿七人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立しました。』
出典 堺町御門の駒札

この堺町御門の警備は、幕末の頃、長州藩の担当であった。
文久3年(1863)8月に起きた政変を知った長州藩がこの堺町御門に集結するも、既に会津・薩摩の兵により固められており、門内に入ることが出来ず、
公武合体派が尊王攘夷を唱える公家七卿と長州藩を京から追放することになる。
この政変は尊王攘夷を唱える公卿7人が京落ちをすることで、世に七卿落ちと呼ばれている。
七卿落ちとは、公武合体を推す公家と尊王攘夷を謀る公家との確執で、時の孝明天皇が公武合体を後押しした為、会津・薩摩を中心とした公武合体派により、
長州が進める尊王攘夷の7人の公家、三条実美(さねとみ)、三条西季知(すえとも)、四条隆謌(たかうた)、東久世通禧(みちとみ)、壬生基修(もとなが)、錦小路頼徳(よりのり)、澤宣喜(のぶよし)の7人が京から長州へと落ちて行くのである。
その後、王政復古の号令が掛ると赦免され、それぞれ明治政府の要職につき生涯を終えている。
この7卿落ちの翌年に「禁門の変(蛤御門の変)」が起こるのである。

御所の建礼門から南への道は、正路として真っ直ぐに丸太町通に出る構想だったが、九条池に架かる高倉橋が馬車も通れないような幅だったことから正路とならず、高倉橋の北詰で左(東)に曲り、堺町御門から丸太町通へ出ることになる。
建礼門の前から出発する、葵祭や時代祭は、建礼門から正路を進み、堺町御門から丸太町通へと出てゆくのである。
京都御苑の九つの門は総て「高麗門」という形式だが、堺町御門だけは、後に左右に門番所が増築されている。
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