間ノ町口を入りすぐの右側に九條邸があったのだが、その北向いに鷹司邸があった。

鷹司邸跡にある駒札には、
『鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。
江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮(あつのみや)が鷹司家を継ぎました。
孫の政通は幕末期30年以上も関白を務め、九条尚忠へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。
政通婦人は水戸藩主徳川斉昭(なりあきら)の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。
元治元年(1864)の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放たれた火は、長州藩邸の火などとともに、どんどん焼けと称する京都大家になりました。』
出典 鷹司邸跡の駒札

鷹司家は鎌倉時代中頃に、近衛家から別れた五摂家の一つである。
摂家とは藤原氏嫡流の公家で、摂政・関白・太政大臣という公家の頂点の職に任じられる家をいい、鎌倉時代に原型が成立するが、
平安時代末期に、近衛家・九条家・二条家・一条家そしてこの鷹司家をいれ、五摂家が成り立ち、以降この五つの公家が要職を占めることとなる。
幕末には30数年の異例ともいえる長きに亙り、関白を務めた鷹司政通がいる。
正室は水戸藩主徳川斉昭らの姉で、朝廷や幕府に人脈があり、孝明天皇にも重く用いられた。
元治元年(1864)の禁門の変では、長州藩が屋敷を占拠し、久坂玄端や寺島忠三郎らが自刃すると共に屋敷に火が放たれ、
長州藩邸の火などとともに「どんどん焼け」といわれる大火に広かったのである。

鷹司の名は、平安時代に鷹狩りを主管とする主鷹司(しゅようし)という部署があり、そのあたりを鷹司小路(現、下長者町通)と呼ばれた。
鷹司家初代、近衛家の四男・鷹司兼平がそこに邸を構えたことから、鷹司の名が付いた。
因みに他の、近衛・九条・一條・二條の名も通り名に由来している。
余談だが、旧皇室典範では皇太子妃(将来の皇后)はこの五摂家の女子に限ると定められていた。
それが戦後、皇族でも華族でもなく、ましてや士族以下の民間人である正田美智子さんが、昭和34年(1959)に皇太子明仁親王(上皇陛下)と結婚という、皇室では初めてのことが起きるのであるが、それ以降は徳仁親王に小和田雅子さん、文仁親王と川嶋紀子さんと、民間から皇室へと嫁いでいる。
この時の皇太子と美智子妃とのご成婚パレードを見ようと、当時はまだまだ高嶺の花であったテレビの普及にも一役買ったのである。

鷹司邸跡にある駒札には、
『鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。
江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮(あつのみや)が鷹司家を継ぎました。
孫の政通は幕末期30年以上も関白を務め、九条尚忠へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。
政通婦人は水戸藩主徳川斉昭(なりあきら)の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。
元治元年(1864)の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放たれた火は、長州藩邸の火などとともに、どんどん焼けと称する京都大家になりました。』
出典 鷹司邸跡の駒札

鷹司家は鎌倉時代中頃に、近衛家から別れた五摂家の一つである。
摂家とは藤原氏嫡流の公家で、摂政・関白・太政大臣という公家の頂点の職に任じられる家をいい、鎌倉時代に原型が成立するが、
平安時代末期に、近衛家・九条家・二条家・一条家そしてこの鷹司家をいれ、五摂家が成り立ち、以降この五つの公家が要職を占めることとなる。
幕末には30数年の異例ともいえる長きに亙り、関白を務めた鷹司政通がいる。
正室は水戸藩主徳川斉昭らの姉で、朝廷や幕府に人脈があり、孝明天皇にも重く用いられた。
元治元年(1864)の禁門の変では、長州藩が屋敷を占拠し、久坂玄端や寺島忠三郎らが自刃すると共に屋敷に火が放たれ、
長州藩邸の火などとともに「どんどん焼け」といわれる大火に広かったのである。

鷹司の名は、平安時代に鷹狩りを主管とする主鷹司(しゅようし)という部署があり、そのあたりを鷹司小路(現、下長者町通)と呼ばれた。
鷹司家初代、近衛家の四男・鷹司兼平がそこに邸を構えたことから、鷹司の名が付いた。
因みに他の、近衛・九条・一條・二條の名も通り名に由来している。
余談だが、旧皇室典範では皇太子妃(将来の皇后)はこの五摂家の女子に限ると定められていた。
それが戦後、皇族でも華族でもなく、ましてや士族以下の民間人である正田美智子さんが、昭和34年(1959)に皇太子明仁親王(上皇陛下)と結婚という、皇室では初めてのことが起きるのであるが、それ以降は徳仁親王に小和田雅子さん、文仁親王と川嶋紀子さんと、民間から皇室へと嫁いでいる。
この時の皇太子と美智子妃とのご成婚パレードを見ようと、当時はまだまだ高嶺の花であったテレビの普及にも一役買ったのである。
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