京都駅から206系統のバスに乗り「千本上立売」で降りると、千本通の東側に面して立つ「石像寺(しゃくぞうじ)」がある。石像寺よりも「釘抜地蔵」の名で知られている寺である。



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家隆山光明遍照院石像寺(かりゅうざん こうみょうへんじょういん しゃくぞうじ)といい、本尊は地蔵菩薩である。

石像寺は弘仁10年(819)弘法大師の開基と伝えられ、もと真言宗であったが、鎌倉時代に重源(ちょうげん)上人が中興して浄土宗となった。

江戸時代の慶長19年(1614)厳誉上人のい再興された。

地蔵堂に安置される本尊の地蔵菩薩は、空海が中国の唐から持ち帰った石から彫り出されたもので、

あらゆる苦しみを抜いてくれる「苦抜地蔵」が訛って「釘抜地蔵」と呼ばれるようになる。

また室町時代末期に、紀伊国屋道林という商人が両手の痛みで、この地蔵尊に願を掛けたところ、

地蔵菩薩が夢に現れて「前世の恨みが両の手に刺さっているので、今その釘を抜いてやろう」と告げられると、

たちまち痛みが消え去ったことから、釘抜地蔵と呼ばれるようになったとも言う。



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駒札によると、

『正しくは光明遍照院石像寺という浄土宗の寺院で、「釘抜地蔵」「くぎぬきさん」として親しまれている。

弘法大師(空海)の開基と伝えられ、もと真言宗であったが、重源上人が中興してから浄土宗となった。

地蔵堂に安置する石造地蔵菩薩立像は弘法大師の作と伝えられ、もとは諸々の苦しみを抜き取るという信仰から苦抜地蔵と呼ばれていたが、それがなまって釘抜地蔵となった。

一説には、手の病気に苦しむ商人の夢に地蔵菩薩が現れ、手に刺さっていた二本の恨みの釘を抜いて救ったことから、釘抜地蔵と呼ばれるようになったとも伝えられる。

地蔵堂背後の阿弥陀三尊像(重要文化財)は、鎌倉初期の傑作で、中尊の阿弥陀如来像は高さ約1.2m、元仁元年(1224)、伊勢権守、佐伯朝臣為家によって彫られ、翌年、開眼供養した銘がある。

観音堂には行基の作と伝えられる観世音菩薩を祀っている。

境内には弘法大師三井(さんせい)の一つという加持水がある。

また、この地は鎌倉時代初期の歌人藤原定家、家隆が住んだ所ともいわれており、定家らの墓とも伝えるものがある。』

                    出典:【石像寺(釘抜地蔵)の駒札】より