境内には「我衣に ふしみの桃の 雫せよ」と自然石に刻まれた句碑がある。 |
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これは、貞享2年(1685)に西岸寺第三世住職・任口(宝誉)上人を訪ねた芭蕉が、出会いの喜びを、上人の高徳を当時の伏見の名物であった桃に事寄せて詠んだものである。 |
「野ざらし紀行」には、伏見西岸寺、任口上人にあふて、との前書きがある。 |
碑は文化2年(1805)の建立になる。 |
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駒札には、 |
『貞享2年(1685)任口(宝誉)上人の高徳を慕ってを訪ねた芭蕉が、 |
出会いの喜びを当時伏見の名物であった桃にことよせて「我衣(わがきぬ)に ふしみの桃の 雫せよ」と詠じたもので |
「野ざらし紀行」には、「伏見西岸寺任口上人にあふて」と前書きがある。 |
任口上人は当山の三世住職。重頼(松江重頼(まつえしげより):江戸初期の俳人で京の人。俳号を維舟(いしゅう)という。)門下の俳人。 |
法名は、如羊と称して、宗因(西山宗因(にしやまそういん):江戸初期の連歌師で俳人。肥後の人で談林派の祖。) |
に連歌、維舟に俳諧を手ほどきし、晩年、談林の長老として慕われた。 |
当山に訪れる客は多く、 |
西鶴(井原西鶴(いはらさいかく):江戸初期の俳人、浮世草子・人形浄瑠璃の作者。好色一代男を始め、好色ものの作者で、談林派の俳人でもある。)や |
其角(宝井其角(たからいきかく):江戸初期の俳諧師。松尾芭蕉に俳句を学び、 |
忠臣蔵では討ち入りの前夜、大高源吾と出会い「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠み、源吾が「あした待たるる その宝船」と返す場面に登場する。)、 |
玖也(松山玖也(まつやまきゅうや):江戸初期の俳人。磐城の人で大坂に定住。俳句を李吟に学び、のち宗因の門下となる。)、 |
季吟(北村李吟(きたむらきぎん):江戸初期の歌人・俳人で和学者。松尾芭蕉の師でもある。)、 |
意朔(伊勢村意朔(いせむらいさく):江戸初期の俳人で、大坂に住む。李吟に師事する。)らの当時の著名な俳人も多く足をとめた。 |
任口上人は、貞享3年(1686)81歳で示寂し、当山墓地にまつられている。 |
出典:【芭蕉翁塚・任口上人の駒札】より |
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