壬生寺の正門を入るとすぐの右手に阿弥陀堂があり、その後の池に浮かぶ小さな島が、壬生塚と呼ばれるところである。

ここには新選組隊士11名の墓所があり、近藤勇の胸像、遺髪搭などとあわせ、三橋美智也が歌った新選組の歌碑も建っている。

「賀茂の河原に千鳥が騒ぐ、またも血の雨涙雨・・・」と始まり、「……変わる時世に背中を向けて、新撰組よ何処へゆく」と終る歌である。



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壬生寺に祀られている新選組の隊士は、

近藤勇(局長:慶応4年(1868)4月25日没)
流山で捕えられ斬首。ここには遺髪が納められており、胸像は俳優の上田吉二郎が建てたものである。

芹沢鴨(局長:文久3年(1863)9月18日没)
浪士組から加わる水戸派の人物で、八木邸にて近藤らによって暗殺をされる。

平山五郎(副長助勤:文久3年(1863)9月18日没)
芹沢一派の人物で、芹沢と共に八木邸で暗殺をされる。

河合耆三郎(きさぶろう:勘定方:慶応2年(1866)2月12日没)
帳簿で間違いを起こし、親族が助けようとするも間に合わず詰め腹を切らされる。墓碑は親族が建立したものである。

阿比原栄三郎(副長助勤:文久3年(1863)4月6日没)
病死とも暗殺されたとも言われる。

田中伊織(詳細不明:文久3年(1863)9月13日没)
水戸派で新見錦ではなかったかという人物で、新見の変名とも言われる。

野口健司(副長助勤:文久3年(1863)12月28日没)
芹沢鴨の一派で、隊規違反の罪を負わされ、前川邸で近藤らに詰め腹を切らされる。

奥沢栄助(伍長:元治元年(1864)6月5日没)
池田屋騒動で裏庭を固めていたが、浪士の逃げ場となり、多勢に無勢で討死する。

安藤早太郎(副長助勤:元治元年(1864)7月22日没)
奥沢と共に池田屋の裏を固めていたが、深手を負いその後に死亡する。

新田革左衛門(平隊士:元治元年(1864)7月22日没)
池田屋騒動で深手を負い、その後死亡する。

葛山武八郎(伍長:元治元年(1864)9月6日没)
新選組隊規違反で切腹させられている。

このように11名の人物の亡くなり方をみるだけでも、

文久の創成期から、元治の池田屋騒動の時の絶頂期、そして慶応の凋落期と新選組の歩みの一環をみてとることが出来る。