京都駅から26系統の山越に向かうバスに乗り、烏丸通を北へ、四条烏丸で西に折れ、四条大宮を過ぎて一つ目の壬生寺道で降りると壬生である。

この壬生の地は幕末の新選組発祥の地であり、その威光が残っているところでもある。

壬生寺道のバス停から細い通りを南へ歩くと壬生寺がある。



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正暦2年(991)に僧快賢が母の菩提を弔うために建立したとされる律宗(本山は奈良の唐招提寺)であり、

中興の円覚上人が仏教の教えを優しく伝えるために始めた、大念仏狂言を伝えるお寺で、今では「壬生狂言」として演じられ継承されている。

2月の節分と4月の大念仏会そして10月の年3回、壬生狂言が地元の人達によって行なわれている。

1番の愛宕詣から30番の羅生門までの狂言の題目がある。

一度は見てみたいと思っているのだが、なかなかその機会に恵まれないでいる。

残念なことに、本堂は昭和37年(1962)に放火によって焼けてしまい、今の本堂は昭和45年(1970)の再建となっている。

またこの寺は、新選組の沖田総司が子供達と遊んだとされる寺であり、同じく境内では訓練や大砲を撃ったともいわれているが、

沖田総司が子供達を集めてひと時の安らぎを過ごした寺として思うほうが、何故か心安らかな感じがする。

少し建物が新らしすぎて、沖田総司の面影を偲ぶことは難しいが、

少なくとも幕末にはそれらの人がここに居たということは紛れもないない事実であり、その息吹を少しでも感じられたらと思うのである。



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駒札によれば、

『律宗に属し、本尊は地蔵菩薩立像(重要文化財)である。

寺伝によれば、正歴2年(991)三井寺の快賢僧都により創建され、古名を地蔵院、宝幢三昧寺などと呼ばれていた。

その後、火災により堂宇を焼失したが、正元元年(1259)平政平により復興され、

さらに正安2年(1300)円覚上人が、仏の教えを無言劇に仕組んだ、壬生狂言(重要無形民族文化財)を創始し大いに栄えた。

昭和37年に本堂が焼失したため、昭和45年に再建された。

また、境内北にある壬生狂言を演じる舞台、大念仏堂(重要文化財)は、安政3年(1856)の特異な建造物である。

当時境内は、新選組が大砲や剣術・馬術の訓練をした場所として有名であり、壬生塚には近藤勇の胸像、芹沢鴨らの墓塔がある。

池田屋騒動があったと言われる7月16日には、毎年、慰霊供養祭が行われる。』

                    出典:【壬生寺の駒札】より