境内には閻魔・篁堂があり、閻魔大王像と小野篁像が安置される。 |
説明板によると |
『堂宇には右手に笏(しゃく)を持った等身大の衣冠装束姿の小野篁立像(江戸時代)と善童子や獄卒鬼王 |
さらにはその傍には、閻魔大王坐像(小野篁作)を安置するとともに弘法大師(空海)坐像等も合祀する。 |
小野篁(802~852)は、参議小野岑守(みねもり)の子で、嵯峨天皇につかえた平安初期の政治家であり文人・歌人としても知られる。 |
文章生より東宮学士(皇太子の先生)などを経て閣僚級である参議という高級官僚にまでなり、また乗馬・弓術・剣術など武芸百般にも優れた文武両道の人物であった。 |
不羈(ふき)な性格で「野狂」ともいわれるように奇行も多く、昼は朝廷に出仕し、 |
夜は閻魔王宮の役人であったという奇怪な伝説は、「江談抄(ごうだんしょう)」や「今昔物語」などの説話集や「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」等にも数多くみられることより、 |
平安末期頃には篁が、独特の神通力を有しつねに現世と冥府の間を往来する閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことがうかがえる。 |
また、篁は承和5年(838)三十代半ばで遣唐副使に任じられながら、大使の藤原常嗣(ふじわらつねつぐ)と争い、 |
「西道謡」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどにより嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐へ流罪となり、一切の官位官職を奪われたこともある。 |
しかし、承和7年(840)には帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を登り |
承和14年には従三位という高位に就いていることからも篁の尋常でない才能のほどがわかる。 |
篁が流刑地の隠岐へ流されるときに詠んだ歌は小倉百人一首にも採られ、知る人も多い。 |
「わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船」』 |
出典:【閻魔・篁堂の説明板】より |
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