嵐電嵐山本線の「太秦広隆寺」で降りると目の前に「広隆寺」がある。 |
広隆寺の門前は三条通で、電車やバス・車がひっきりなしに通り途切れることがない。 |
広隆寺は、太秦寺、太秦太子堂、葛野秦寺または秦公(はたきみ)寺などと呼ばれるが、そのある地名から、太秦広隆寺と呼ばれることが多い。 |
広隆寺は推古天皇の三十年(622)に秦河勝が、聖徳太子の死をいたんで建立し、新羅・任那から贈られた仏像を安置したのに始まるという。 |
秦氏は新羅から帰化した氏族で、6世紀末には深草から葛野にかけて広大な勢力をほこり、治水・農耕・養蚕・機織・酒造などの技能集団を形成していたのである。 |
その名残が、広隆寺を含め、木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や、梅宮大社、松尾大社(酒造の神)などの寺社があり、秦氏の勢力がいかに大きかったかということが分かるのである。 |
広隆寺はもと葛野郡九条河原にあったが、平安遷都とともにこの地に移ったが、弘仁9年(818)に全焼し、その後、藤原信頼により、永万元年に再興される。 |
広隆寺は二体の弥勒菩薩があ安置されており、その名も同じ「弥勒菩薩半跏像」なのだが、 |
よく知られているのは、通称「宝冠弥勒」といい、高さ121cmの木像漆箔の仏像で、彫りの深い鼻の稜線、わずかに頬にふれる右手の薬指、口元に笑みをたたえ物想いにふける姿は、 |
ドイツの哲学者カール・ヤスパースがこの像を |
「地上におけるすべての時間的なもの、束縛をこえて達しえた人間の存在の最も清浄な、最も円満な姿のシンボル」 |
「真に完成されきった、人間実存の最高の理念があますところなく表現されつくしている」とまで言わせた仏像である。 |
聖徳太子の頃に関わる仏像の殆んどは、奈良に集中しているのだが、京都で飛鳥初期の仏像を見ることが出来るのは、この広隆寺をおいてほかにはない。 |
もう一つの弥勒菩薩が、「泣き弥勒」といわれるもので、沈うつな表情で右手を頬に当てた様子が泣いているように見えることから、 |
泣き弥勒と呼ばれているもう一体の弥勒あるのだが、先の「宝冠弥勒」には勝てないで涙を流しているようである。 |
そんななかで、昭和35年(1960)8月に弥勒菩薩の頬にあてた右手を折るという事件が起こったのである。 |
京都大学の学生がどんな気持ちからか、国宝の指を折るということをしてしまったのである。 |
当時は誰でも触れることができるほどの距離に置かれていたのだが、こんな不祥事は起こり得なかったのだが、魔が差したと言おうか、頬に当てた指を折ってしまったのである。 |
触れてはいけないものに触れてしまい、それが予期せぬ出来事を引き起こしてしまったということで、一大センセーションをおこしたのだが、 |
本人は起訴猶予となり、弥勒像も完璧なまでの修復で、折損したことすら分からない姿で今も、広隆寺に安置されている。 |
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