余談だが積善院の境内には、昭和27年に

義太夫節の豊竹山城少椽(しょうじょう)や歌舞伎役者の中村雁冶郎・片岡仁左衛門らが発起人となり、近松半二の浄瑠璃「近頃河原達引」の主人公「お俊・伝兵衛恋情塚」が建つ。



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頃は、享保19年(1734)11月16日、聖護院の森で釜座三条の呉服商・井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の遊女・お俊との心中事件が起こるのである。

その3日前には、四条の芝居子屋で徳大寺家の武士と京都所司代の武士が切り結び、死者を出すという事件が起こっている。

この二つの事件を結びつけ、近松半二が浄瑠璃に纏め上げたのが「近頃河原達引」という作品である。その主人公が、お俊と伝兵衛なのである。


「近頃河原達引」という芝居は、先斗町近江屋の遊女・お俊を巡り、伝兵衛と徳大寺家の武士、横淵官左衛門との三角関係の話である。

お俊に横恋慕した横淵官左衛門がお俊から手を引かせようと、伝兵衛を四条の河原まで追い、刀を抜き伝兵衛を斬ろうとするが、逆に刺し殺されてしまうのである。

武士を斬った伝兵衛は、死罪は免れないと、一目お俊に会いに近江屋へ行く。

真実を知ったお俊は近江屋を抜け、堀川の実家へと向う。

母と兄は、お俊に伝兵衛と縁を切らせるために、退状(のきじょう)を書かせるのである。

これを伝兵衛が読み、ここでこの芝居での有名な台詞が出るのだが、

伝兵衛は自分は死ぬから、お俊は生きて自分の菩提を弔って欲しいというと、

お俊が『そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん』という、この芝居の見せ所が出るのである。

そこで二人の愛が深いと知った母と兄は、祝言をあげさせ二人を逃がしてやるのである。

そして二人は聖護院の森を目指し、夜明け前に心中をするのである。

となるのだが、この芝居では兄の与次郎が助けにきて、二人とも助かりその罪も許されて、浄瑠璃の話としては珍しく、ハッピーエンドで終わるお話なのである。