祇園から北に2Kmほどの聖護院の南西に、崇徳院の御所があったといい、聖護院の東隣りには、その塔頭である「積善院凖提堂」がある。 |
積善院の創建はよく分かっていないのだが、鎌倉時代に熊野神社の北西に創られたといい、聖護院の門跡代行としての地位を与えられていたという。 |
この神社に「人喰い地蔵」という地蔵像が伝わっている。 |
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積善院の由緒を駒札にみると、 |
『積善院は、聖護院門跡(本山修験宗の総本山)の門跡を代行することもあった一院家であり、創建は鎌倉時代に遡るとされ、昔は「栴ノ坊(なぎのぼう)」と称した。 |
明治の初め頃に凖提堂と合併され、積善院凖提堂と称するようになった。 |
本堂には、寛政年間(1789~1801)光格天皇の勅願により、その皇子である聖護院宮盈仁(えいにん)法親王の開眼となる |
凖提堂の本尊・凖提観音像と、鎌倉初期のもので智証大師の作風を伝え、截金(きりがね)文様の美しい積善院の本尊・不動明王像(重要文化財)を安置する。 |
聖護院の森の西北(現在の京大病院の辺り)の野にあって庶民の信仰を集めていた石仏の崇徳院地蔵(別名 人食い地蔵)を境内西北隅に祀る。 |
また境内には、近松門左衛門の浄瑠璃「近頃河原達引」にちなんだお俊伝兵衛恋情塚がある。 |
これはお俊と伝兵衛が聖護院の森で心中しようとしたあらすじにちなむもので、 |
昭和27年、義太夫節の名人・豊竹山城少椽(しょうじょう)や歌舞伎役者の中村雁冶郎・片岡仁左衛門らの発起によって供養塔と碑が建てられた。 |
毎年2月23日に行われる五大力尊法要は盗難除け・家運繁盛を願う善男善女で賑う。』 |
出典:【積善院準提堂の駒札(左京区聖護院中町)】より |
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この寺にも崇徳院に因むものがある。 |
崇徳院は75代の天皇で、父である鳥羽上皇に疎まれ若くして天皇の座を、近衛に譲る。 |
(この裏には、崇徳は鳥羽天皇の子ではなく、祖父である白河上皇の子だとの噂があったのである) |
しかし近衛天皇が急逝すると、後白河天皇が即位し、それを否とする崇徳側が保元の乱を起こすが、時は味方せず戦に破れ讃岐に流され、その地で亡くなるのである。 |
それ以来、京の都は天変地異に見舞われ、これを鎮めるために庶民により祀られた地蔵尊が今この積善院に安置されていて、 |
「崇徳院」が訛り「ひとくいん」となり、いつしか、「人喰い地蔵」と呼ばれるようになったという地蔵尊である。 |
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