華やかな祇園の一角に、崇徳廟という祇園には不釣り合いな天皇の御廟がある。

ここは、怨霊となった崇徳天皇の霊を慰めるために、崇徳が愛した阿波内侍が、遺髪を貰い受け自宅跡に塚を建てたのが始まりだという。



 クリックで大きくなります
駒札によれば、『崇徳上皇(75代)は、平安時代の末、保元の乱(1156)により、讃岐国に御配流の悲運に遭われた。

上皇は血書をもって京都への御還幸を願われたが、意の如くならず憤怒の御姿のまま、長寛2年(1164)夏、46歳にて崩御。五色代白峯山の御陵に奉葬された。

上皇の寵愛篤かった阿波内侍は、御遺髪を請い受けてこの場所に一塚を築き亡き上皇の霊をお慰めしたと伝承されている。

その頃の京都では、上皇の怨念による祟りの異変が相次いで発生したため、御影堂や粟田宮を建てて慰霊に努めたが、永い年月の間に廃絶して、此の所のみが哀史を偲ぶよすがとなっている。

なお、孝明・明治両天皇の聖慮により、白峯神宮が創建され、元官幣大社として尊崇され今日に至っている。』

                    出典:【御由緒の駒札】より



 クリックで大きくなります
崇徳天皇は平安末期の75代天皇で、4才で即位する。

鳥羽上皇の第一子だが、上皇は自分の子ではなく、祖父の白河天皇が待賢門院(藤原璋子(しょうし))に産ませたこではないかとと疑い「叔父子」と呼び、疎んじたのである。

天皇は崇徳だが実権は鳥羽上皇が握り、寵愛する美福門院(藤原得子(なりこ))の運だ子を天皇にせんがため、

23才の崇徳天皇に攘夷を迫り、76代の天皇として3才の近衛天皇を即位させるのである。

退位した崇徳は上皇となるも実権はなく悶々と時を過ごすのである。

そんな折、近衛天皇が17才で崩御すると、幼帝ではなくその父だる後白河が76代の天皇に即位する。

これにより崇徳上皇が政権の中枢に返り咲くことは無くなったのである。

鳥羽法皇が亡くなると両者の対立は鮮明となり、その頃に勃興してきた武士を巻き込んでの権力争いが起こるのである。

これが骨肉相争うことになる「保元の乱」である。しかし時は崇徳院に味方せず、敗れて讃岐国へと流される。

そこで悔恨の念を込め、五本の写経を京の寺に納めようとするが、朝廷は受け取りを拒絶するのである。

これに激怒した崇徳院は「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」と言い舌を噛み、

流れる血で写経に「この経を魔道に回向す」と書き、深い怨念を抱いて亡くなるのである。

暫くして都では安元の大火、鹿ケ谷の陰謀など、天下は揺れ動くこととなる。

また後白河天皇に近い人たちが、次々と亡くなるなど崇徳院の祟りだと恐れられた。

更に「平治の乱」が起こり、世の中は武士の時代への扉が開き「天皇は民に、民は天皇に」という崇徳院の思惑へと進んでゆくのである。