| 羅城門跡の石碑がある公園には九条通から少し入るのだが、その入口の横にあのが「矢取地蔵」である。 |
| 九条通から矢取地蔵を左側に見て、小さな路地を北に入ると羅城門遺址の石碑がある。 |
| 羅城門の石碑を眺めて遠い平安の昔を思い起こす術もなく、むしろ前にある「矢取地蔵」の由来を聞き、千二百年も昔の平安の時に思いを馳せたのであった。 |
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| 平安時代初期、嵯峨天皇の命により東寺と西寺が造営された。羅城門東の東寺には空海が、西の西寺には守敏(しゅびん)がいた。 |
| 天長元年(824)に日照りが続き、国土旱操して人々は飢えと乾きに苦しんでいた。 |
| 淳和天皇は、東寺の「空海」と西寺の「守敏」に、御所神泉苑にて雨乞いの勅命を宣下する。 |
| 先に、守敏が祈念するが雨は降らず、対して、空海が祈願すると三日三晩に亘り雨が降り、国土を潤おした。 |
| 雨乞いの祈祷で空海が勝ち、負けた守敏はこれを恨み、空海を羅城門近くで待ち伏せ、矢を放つ。 |
| その時、黒衣の僧が現れ、身代わりに矢を受け空海は難を逃れた。 |
| 実はこの黒衣の僧は、お地蔵さまの化身であり、その地蔵の背に傷があり、その後、人々は空海の身代わりとなった地蔵を「矢負の地蔵」と呼び長く敬ってきた。 |
| その後、いつの頃からか「矢取の地蔵」と呼ばれるようになり、 |
| 参照:【京都新聞 ふるさと昔語り212と矢取地蔵寺縁起の駒札】より |
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| 現在のお堂は明治18年(1885)3月に、唐橋村の人々の寄進により建立されたものである。 |
| 今でも地元の人たちの信仰を集め、絶えることなく手を合わせにくるようである |
| 地蔵堂の東側には、大商のお地蔵さんが安置されているが、昭和初期に、九条通を拡幅する時に、地中から出てきたものだという。 |
| 元々このこの辺りは刑場だったようで、打ち首になった人の供養のためのお地蔵さんだという。 |
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