織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」は、天正10年(1582)2月の未明に起きるのだが、その本能寺があった所は

今、本能寺が建つ河原町御池ではなく、四条油小路の交差点から北へ、300mの所だったのである。



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天正のこの頃の本能寺は、東西150m、南北300mに及ぶ敷地があり、周りは築地塀に囲まれた城郭であった。

信長は京に上ると、この寺を定宿とし近習のみで、ここに宿泊をしている。

信長は、明智光秀の謀反により、49才の生涯を終えるのだが・・・その場所が「本能寺跡」の石碑が建つこの辺りだったのである。

現在の本能寺は、京都市中京区下本能寺前町の寺町御池下ルにあり、この地はその旧址である。


本能寺跡記によれば、

『応永22年(1415)御開山日隆聖人は本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、

後に破却されたので、永享元年(1429)袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、

六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。

その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失、天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって、

旧地より四条西洞院の比の地に移転、壮大なる堂宇の再興を見た。

然るに、天正10年(1582)6月2日彼の「本能寺の変」によって、織田信長とともに炎上、

天正17年(1589)この地に再建せんとするも、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。

一山の大衆声を放って号涙す。』とある。

                    出典:【石碑にある本能寺跡記】より



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また駒札には、

『応永22年(1415)日隆上人が、油小路高辻の地に本応寺(ほんのうじ)を創立したが、

後に破壊されたので、永享5年(1433)に六角大宮に寺域を移して本能寺と改称された。

天文法華の乱で焼失したが、天文16、7年(1547、8)頃、第八世日承によって西洞院と小川との間の四条坊門(今の蛸薬師)の北の地に再興された。

当時は広大な寺域を占め、織田信長の仮宿所となったが、天正10年(1582)6月2日に信長を攻めた明智光秀の兵火にあい一山の堂塔を失った。

後に信孝が父信長の廟を建てたために、本能寺は再びこの地に復興をみることなったが、

豊臣秀吉の区画整理により、天正年間に東京極(今の寺町)の三条坊門(今の御池)南の地に移された。』

                    出典:【本能寺址の駒札】より