膏薬辻子は綾小路通から入ると、中程で右に折れたのちに、左に折れて四条通へと出る辻子となっている。

今では民家は少なくその殆どが商いをする家となっているのだが、

四条烏丸という近代的建物の中にぽつんと、この一角だけが古都京都にタイムスリップしたような場所となっている。

その膏薬辻子の中に平将門を祀る、神田明神がある。



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平安時代の中頃、平将門が朝廷に反旗を翻し、関東一円を支配下に置くという乱が起きるのだが、

平貞盛や藤原秀郷によって僅か2ケ月で平定され、その首は京のこの地(膏薬辻子)に晒しもににされるのだが、

その首が突然空高く飛び上り、関東まで飛んで行き、千代田区の現在、将門の首塚がある辺りに落ちたという。

この世に未練を残した将門の怨霊を鎮めるために、空也上人が「空也供養の道場」の一角に塚を建て供養したのが、神田明神の始りである。

「空也供養(くうやくよう)」が何時しか「こうやく」となり、この路地を「膏薬(こうやく)辻子」と呼ばれるようになった。



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平将門は、平安中期の豪族で、50代桓武天皇の5世である。

関東で育ち、16才で京に上るのだが、藤原一族でなく官位は低いものであった。

12年ほどして関東に戻るのだが、承平5年(935)から7年(937)に掛けて、平氏糸賊の間で争いが起こり、

一進一退の末に敵対するものを退け、将門の名は関東一円に知れることとなる。

天慶2年(939)11月、常陸国府と戦うことになり、これを打ち破るのだが、このことが朝廷に反旗を翻したと見做され朝敵となるが、

その後も関東の国を攻め滅ぼし、関東一円を手中にすると「新皇」と称し、関東を治めることになる。

将門謀反の知らせは京の朝廷にももたらされ、常陸国・平貞盛と母方の叔父・藤原秀郷が4千の兵を集める。

これを迎撃に来た将門勢を破り、その勢いのまま将門を追い詰めて、天慶3年(940)2月「北山の決戦」で、将門は流れ矢に射貫かれ戦死をする。

新皇と称して僅か2ケ月後のことである。

その首は、京の綾小路通西洞院東入る(現、膏薬辻子)に晒されるのだが、ここから将門の怨霊が代に跋扈してゆくのである。