京の町は平安京造営の際に、中国・長安の都に倣い、碁盤の目に道路を通す「条坊制」がとられ、主要な道路を大路・小路と呼ばれていたのだが、 |
今の京の町には「路地(ろうじ)」や「辻子・図子(ずし)」と呼ばれる小さな道路が存在をする。 |
路地や辻子がどうして出来たのかと言うと、平安の都は大路・小路の通りに囲まれた地域に、住居が建ち並んでいたのだが、 |
中世になると、商業が盛んとなり、通りに面して店が増えてゆき、結果、中心部が空き地となってしまい、ここに入るために、 |
路地や辻子(図子)などの小さい道が出来るのである。 |
路地は、その先が行き止まりとなっているものを言い、辻子(図子)は、通りから通りへと抜けられる水戸を言うのだが、 |
辻子を含めて「路地」とも呼ばれ、その区分は明確ではない。 |
四条通にも多くの路地があるのだが、四条通から一筋南の綾小路通までを、カギ型に抜けているのが「膏薬辻子」である。 |
四条通の入口には、祇園祭の「郭巨山街会所」があり、綾小路通側には、宵山で伯牙山のお飾所となる「杉本家住宅」がある。 |
一般的に辻子・図子と書かれる小路は、通りから通りへと抜けられる小路で、一方、路地は行き止りの小路といっていいだろう。 |
辻子や路地は勿論、車が通れるような道ではなく、細い路地裏のような小路である。 |
京には色々な辻子や路地があるのだが、その中でも「膏薬辻子」はよく知られた辻子の一つである。 |
駒札によれば、 |
『膏薬辻子とは、四条通から中ほどで折れ曲がり綾小路通までを走るこの細い道の名称えある。 |
また、膏薬辻子を挟む地域が、明治2年(1869年)に新釜座町と命名されるまでは、地域の名称としても用いられていた。 |
この地域は、皇后を何代も排出した大納言藤原公任(きんとう)の邸宅である四条宮のあった場所である。 |
そして、この地域において、踊念仏で知られ、後に西光寺(現在の六波羅密寺)を創建した空也上人が、天慶元年(938年)、この地に道場を設けて念仏修行を始めた。 |
天慶3年(940年)に、天慶の乱により戦死した平将門の首が京都の町で晒されて以後、全国で天変地異が相次ぎ、 |
平将門の怨念の仕業とされたため、各地で平将門の霊を鎮めるために首塚が築かれた。 |
京都でも、空也上人が、道場の一角に塚(現在の紙田神宮)を建てて供養したことから、空也供養の道場と呼ばれた。 |
そして空也供養の発音が訛り、細い道を意味する辻子と合わせて、膏薬辻子と呼ばれるようになったとされている。』 |
出典:【膏薬辻子の駒札】より |
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