田舎から帰ってきました。今日から「千年の都に潜む謎」を再開したいと思います。

まずは、「石川や濱の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」と詠んだ、石川五右衛門のことから再開しよう。



三条河原では多数の罪人(罪人とされた)が処刑をされた場所なのだが、

安土桃山時代に、歌舞伎や小説の中での人物だと思われそうなのだが、実在した大盗賊・石川五右衛門が釜茹でになった所である。



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石川五右衛門の生涯は謎に包まれ、何時何処で生まれたかは不詳で、実在した人物かどうかも怪しいのだが、最近の資料によると、石川五右衛門なる盗賊は実在したらしい。

若い頃に父母を亡くし、百地三太夫の弟子となるが、その妻と密通をし出奔して、京で悪事に手を染めることになる。

しかし、私腹を肥やす富豪にからしか盗みをせず、義賊と呼ばれ世の喝采をあびるのだが、

豊臣秀吉の伏見城の寝所に入った所を捕らえられ、文禄3年(1594)に、三条河原で一族郎党子供まで、釜茹での刑に処せられるのである。

一説ではお湯ではなく油の釜に子供ともども入れられたともいう。



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石川五右衛門が南禅寺の山門に登り、満開の桜を背景に眼下を取り巻く、真柴秀吉に対して

「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」

という科白が有名な「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」はあまりにも有名で、これが石川五右衛門の形を決定付けたのである。

しかし、南禅寺の三門に石川五右衛門が登ったというのは、

後世の創りごとで五右衛門が釜ゆでになった後に建てられてたもので、五右衛門は登ることは出来なかったのである。


石川五右衛門というと「濱の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」との辞世の句を残して釜ゆでになった。

この釜ゆでから鉄でできた風呂桶を五右衛門風呂という。

この風呂は風呂に浮かんでいる踏み板を足で沈めてその上に乗って入るのである。

その板に乗らないと直接、鉄の釜に触れて熱くて入れない。

この板を沈めるのが一苦労で、うまく踏み込むことが出来ず浮いてきてしまうのである。

小さい頃、この五右衛門風呂が親戚の家にあって、この板を沈めるのに苦労をして入ったことを思い出していた。

南禅寺の三門と石川五右衛門と五右衛門風呂とつながって小さい頃のことを思い出して、この門を眺めていた。