神明神社は、摂関家である藤原忠通の邸宅「四条内裏・東洞院内裏」にあった鎮守社といわれている。忠通邸には近衛天皇もたびたび行幸したという。



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平家と源氏が覇権を競っていた時代、摂関家のトップで関白であった忠通は、父の忠実が溺愛した頼長に取って代わられるのだが、

人を人と思わない頼長を鳥羽法皇が嫌った為に、頼長は鳥羽上皇と対立する崇徳上皇に近づいてゆく。

一方、忠通は近衛天皇崩御後に即位した、後白河天皇へと近づくのである。

そして、後白河天皇と崇徳上皇が皇位継承をめぐって起こる、骨肉相食む「保元の乱」や、

それに続く、平家と源氏の武士の覇権を争う「平治の乱」をも生き延びて、白河天皇から後白河天皇まで5代の天皇に仕え、

平等院を建てた藤原頼通の50年に次ぐ、37年という長きにわたり摂政の職を務めたのである。

その忠通の鎮守社が、神明神社として、今はビルや商店が入り交じる中に、小さな祠が残っているのみである。