源頼政が鵺を退治した経緯は、平家物語巻4の13「鵼の事」に書かれている。 |
平家物語巻4の13「鵼の事」によれば、 |
平安時代後期の仁平の頃、内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が夜な夜な怯えられる事があった。 |
そこで源平両家の兵(つわもの)の中から、兵庫守であった源頼政が選ばれ、警固を任された。 |
深夜に東三條の森から黒雲立ち着くれば、その中に怪しき物の姿あり、それに向かい矢を射れば、手答してはたと中(あた)る。 |
射落とした怪鳥は、頭(かしら)は猿、軀(むくろ)は狸、尾は蛇(きちなは)、手足は虎で鳴く声は鵼に似たものであった。 |
この変化のものは、空舟(うつぼぶね:丸太舟)に入れて海に流した。 |
この時に殿上の左大臣が |
「ほとゝぎす 名をも雲井に あぐるかな」と詠めば、頼政「弓はり月の いるにまかせて」 |
と返し、武芸だけでなく歌道にも優れたといわれた。 |
そのときに血の着いた鏃を洗ったのが、二条公園の池だと伝えられ「鵺池」と呼ばれるようになったという。 |
源頼政は、源頼政は、後白河天皇と崇徳上皇が争った「保元の乱」と、平清盛と源義朝が雌雄を決した「平治の乱」のいずれにも勝者の側に付き、 |
平清盛の信頼を得て、源氏としては破格の従三位のくらいまで昇りつめた人物であるのだが、 |
齢七十を越えた頃から平家の横暴に抗する為に、以仁王と結び平家打倒を企て、平氏討伐の以仁王の令旨を全国に伝えたが、 |
その計画が露見することとなり、戦備の整わぬままに挙兵することとなり、平家と宇治橋の合戦に破れ、以仁王を奈良に逃がし、平等院にて自刃して果てるのである。 |
以仁王もまた、奈良の興福寺へと逃れる途中に捕われて命を落すのである。 |
頼政の辞世の句として、「埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける」が残されている。 |
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