鵺池とされる池に、元禄13年(1700)に建てられた石碑は、碑文は永年の風雨に晒されて摩耗し、

僅かに「鵺池碑」の三文字が認められるだけとなり、ために昭和11年(1936)に、二条公園の北、鵺大明神社内に石碑が復元されている。



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その碑文には、『我源朝臣松平紀伊君在京之日、家臣太田毎資亦来居焉、其宅後有池曰鵺池、俗伝以。

為頼政卿嘗滌射鵺鏃之地矣。今毎資者道潅七世之孫、而頼政卿遠裔也。

故聞斯事喜適居其地、且懼其就泯減。因使予録其事上石。鳴呼追遠之心不亦美乎遂書銘曰。

怪鳥当射 志不可敵 休矣邦彦 其声太逖 元禄庚辰三月望日 松崎正祐記』

裏面には、『此地古来称鵺池。池辺有碑、詳誌其伝説而及徳川氏執政柄地属所司代之邸内。

以故当時所刊行名所誌之類或憚而不記焉。維新之初就邸址而置監獄、猶用意於保存但碑石、則風餐雨虐文字漸磨滅。

後、撤獄舎昭和九年新設二条公園之、比至不可復読有志以為恨也。偶有元看守長青山咸懐氏在職之間手記原文。

両者相対照而主文始歴如恨事乃除矣、於是有志相謀更選碑石刻之以伝後世云爾。昭和十一年三月望日 出水学区建碑有志』と刻まれている。


意訳をすれば、「源朝臣松平紀伊守が京都に住んでいた時、家臣の太田毎資もまた京都に住んでおり、毎資の屋敷の後ろに池があり、俗に鵺池と呼ばれていた。

源頼政卿が、かつて鵺を射た鏃(やじり)を洗った池だと云われていた。また毎資は太田道灌の七世の孫で、頼政卿の末裔である。

ゆえに、それを聞きその地に屋敷を構えた事を喜び、

かつ、この伝承が滅びるのを憂いて私にその事を石碑に碑文として書かせたのである。ああなんと先祖を思う美しい心ではないか。」

裏面には、「この地は古くから鵺池と呼ばれていた。池の畔に碑があったが、徳川の世になり、この地が京都所司代の屋敷内に属するようになってしまった。

それゆえ当時刊行された、京都名所の類には記載されていないのである。

維新のの初め所司代屋敷跡に監獄が置かれたが、石碑は大切に保存されたが、雨風により文字が削られてしまった。

(昭和2年(1927)に獄舎が山科に移ると)昭和9年、その跡地に二条公園が作られたが、

その頃には碑文は全く読めなくなっており、有志は心なく思っていた。たまたま元看守長青山咸懐氏が在職中に原文を写していた。

両者を照らし合わすと碑文が明らかとなり、そこで融資が相計り石碑を建て、後世に伝えるものである。

                    参照:【鵺池碑-京都市-のHP】より